追悼。阪神暗黒時代に孤軍奮闘したマット・キーオ氏が盟友に漏らした本音…「なぜ100球降板が理解されないのか」
池田氏は、4歳年下だったが、「マット!」と呼ぶかけると「僕がセンパイでしょう」「マットさんと言いなさい」と、日本語でジョークを返した。キーオ氏の日本語堪能のエピソードとしてよく使われる「ちょっと待ってきいよ(マット・キーオ)」は、何かある度に、本当によく使っていたという。 池田氏は飲むたびに愚痴を聞いた。 「オレは自分の仕事をしているだけ。疲れを残さず万全な状態で次も勝った方がいいのになぜ、それがわかってもらえないのかな。首脳陣に理解されないのかな。なぜ日本のマスコミは悪く書くのだろう」 掛布氏が回顧したように球数が100球を超えると好投をしていても降板を訴えた。今でいうクオリティスタートの考え方だ。だが、当時は、先発完投が美徳とされ、その考え方は理解されなかった。 しかも、当時の阪神には「JFK」などのブルペンが確立していなかった暗黒の時代。キーオ氏が7、8回で降板すると、ゲームが暗転するケースが多く、先発完投でひとつの時代を築いた故・村山実氏が1988年に監督になると、早期降板をする度に文句をいった。関西のスポーツメディアも、その村山談話を使って「キーオ造反」「キーオがまた代えて病」などとバッシングを続けた。 キーオ氏が、4年間の在籍中、吉田義男氏が監督を務めた1987年が最下位、故・村山実氏が監督になった1988年が最下位、1989年が5位、故・中村勝広氏に監督が交代した1990年も最下位。その中でキーオ氏は11勝、12勝、15勝と、3年連続2桁勝利を挙げるなど孤軍奮闘していたが評価の低さが我慢ならなかったのである。 池田氏が、「それはさ。阪神は人気球団。期待が大きいからその裏返しで厳しい書き方にもなるんだろう」と慰めたが、キーオ氏は、阪神の首脳陣と日本の野球界への不満を漏らした。 「今日無理して150球を投げるより、100球で降りて、1年間、ローテーを守ることがチームにとってプラスになる。それがオレの仕事なのに」 メジャーで通算58勝の実績を作ったキーオ氏が、そのメジャー流のローテーション理論を日本に持ち込むのには、まだ時代が早すぎたのだ。