追悼。阪神暗黒時代に孤軍奮闘したマット・キーオ氏が盟友に漏らした本音…「なぜ100球降板が理解されないのか」
元阪神のマット・キーオ氏が亡くなった。引退後、GM補佐まで務めたアスレチックスがツイッターで報じたもの。死因は不明で64歳だった。キーオ氏はメジャーのアスレチックス時代に3年連続2桁勝利をマーク、オールスター出場経験もあり1987年から阪神でプレー。来日1年目から開幕投手に抜擢され在籍4年間で通算45勝をあげた。阪神退団後はメジャー復帰を目指したが、頭部に打球を受けるアクシンデントなどもあり成功しなかった。引退後は、エンゼルス、アスレチックスで球団フロント業務も経験した。交通事故や飲酒トラブルで警察に厄介になったこともある。
2つの顔を持った陽気な“最強助っ人“
髭に金髪。日本語を流暢に操る陽気なアメリカン…そして縦に恐ろしい落差で曲がるカーブ。それが阪神の暗黒時代をたった一人で支えたキーオ氏の印象だった。ハンシン・レジェント・テラーの掛布雅之氏(64)も、1987年、1988年の2年間を共にプレーした。 「同じ歳の64歳。驚いています。新型コロナで世の中が大変になっているときに、キーオが亡くなったことを聞き、人生というものを色々と考えさせられた。悲しいよね」 掛布氏から見たキーオ氏は2つの顔を持った紳士だったという。 「登板日以外は、日本語で色々と話しかけてくる明るい性格でね。でも、マウンドに上がると一変。神経質になって終盤にピンチになると、すぐに『代えてくれ』と(笑)。内野手はマウンドに集まるじゃない。『もうちょっと行けよ』なんて声をかけたこともあったけど、クビを横に振るんだね。今から考えたら、それがメジャーの野球だったんだろう。そのギャップに人間味を感じた。ナイスガイだった」 「ユンケル」や「リポビタン」のような元気の出る飲料が大好きだったことも微笑ましかったという。掛布氏が、先に引退したが、その後、メジャーの指導法を学ぶために、エンゼルスのマイナーでユニホームを着た際、阪神を退団後、エンゼルスのフロントにいたキーオ氏が手引き、案内をしてくれた。 「僕をリスペクトしてくれているがわかって嬉しかった」という。 評論家の池田親興氏(60)は、キーオ氏と共に阪神のローテーション投手として4年間プレーした。遠征先では、試合後、よく飲みにいった。ビールが好きだった。神戸では、家族ぐるみで付き合いをしていた。 「お父さんが南海でプレーして、幼い頃、日本に住んでいたこともあって日本の文化にすぐ馴染めたし、日本語がわかるんだよね」 父のマーティ・キーオ氏もレッドソックス、レッズなどで外野手として活躍した選手で晩年の1968年には南海ホークスで1年間だけ一塁手としてプレーしている。