謎に包まれた生涯を送った清少納言
宮中での暮らしはよほど水が合ったようで、ほどなくして中宮方を代表する女房として頭角を現した。国内最古といわれる随筆『枕草子』を書き始めたのは、この頃のことといわれている。 ところが、995(長徳元)年に、定子の父で関白を務めていた藤原道隆が死去したことをきっかけに、清少納言の華やかな宮廷生活に暗雲が立ち込める。翌996(長徳2)年には定子の兄弟である、藤原伊周・隆家(たかいえ)兄弟が不祥事を起こして左遷。動転した定子は衝撃のあまりに出家。さらには、定子らの母である高階貴子(たかしなのきし/たかこ)が死去するなど、同年中に不幸が相次いだ。 そんななか、清少納言は定子ら中関白家にとっての政敵となる藤原道長の内通者という噂が流され、針の筵(むしろ)のような思いを強いられるようになったらしい。そこで、いったん郷里に退き、退屈しのぎに『枕草子』を書き上げたといわれている。 やがて内裏に戻った定子に呼び戻され、再び宮中で暮らし始めた。この時の定子は、一条天皇の寵愛を一身に受けていた頃と違い、道長の娘である藤原彰子(あきこ/しょうし)が並び立つ一帝二后という境遇になっていた。それでも定子は一条天皇の愛情に応え、3人の子どもを生んだ。その健気な姿に、清少納言はより一層、定子への敬愛の念を深めたようだ。 ところが、3人目を生んだ翌日に定子は死去。仕えるべき主を失った清少納言は、定子の死を機に宮廷を去った。 その後の足取りはよく分かっていない。晩年は亡父・元輔の旧居のあった月輪で過ごしたといわれており、1021~1028年頃に亡くなったと推定されている。生まれてから晩年まで、実に謎の多い生涯だったといえる。 なお、二后として定子と並び立った藤原彰子の女房として出仕したのが、紫式部だ。紫式部は1005(寛弘2)年頃から宮中に仕えたといわれており、定子が亡くなった1000(長保2)年に宮仕えを辞した清少納言とは面識はなかったと考えられている。 異説として、清少納言の再出仕を主張する見解もあり、そうすると二人が何らかの形で接触していた可能性はある。 いずれにせよ、紫式部は『枕草子』を読んでいたから、少なくとも清少納言の存在については知っていた。紫式部は自著のなかで清少納言を「したり顔にいみじう侍りける人(得意顔で偉そうにしている人)」(『紫式部日記』)と酷評したのは広く知られている。 面識もないのになぜここまでひどくこきおろしたのかは、諸説ある。一説によれば、『枕草子』のなかに紫式部の夫である藤原宣孝(のぶたか)を批判的に記述した箇所があり、これに反発したものではないか、といわれている。
小野 雅彦