日本人が大好きな「県民性ネタ」にもヒントがあった…「地域あるある」からも見えてくる「人類学の本質」
「県民性ネタ」でイメージしてみる
穏やかで何事に関しても中庸を保ちたがる「アポロ型」のズニ、自己中心的で人に軽んじられることに敏感な「ディオニソス型」のクワキウトル、疑い深くつねに何かを恐れていて、「パラノイド(偏執症)」なドブ島民。そうしたパターン(型)の中に、ベネディクトはそれぞれの文化を描き出したのです。ベネディクトにとって文化は、その文化の中で生きる人たちのパーソナリティーに見いだすことができるものだったのです。 ここでいう文化のパターンやパーソナリティーとは何を指しているのでしょうか。これは「県民性」についての議論を思い浮かべると、イメージしやすいかもしれません。 たとえば青森や岩手県民は引っ込み思案で内向的、大阪府民は商売好きで活動的、鹿児島県民は情熱的で外交的など、「県民性」は日常会話の中でもよく引き合いに出されます。実際、こういったイメージを先行させて、ある県や地域のことを捉える人たちは読者の周囲にもいるのではないでしょうか。 もちろん、この手の話のネタは科学的根拠などまったくありません。当たり前の話ですが、人間はそれぞれ千差万別なので、「県民性」という一言で特定の地域に住む人々を特徴づけることなどできません。実際、このように文化をパターンとして捉えるベネディクトに対しては、デフォルメされているとか、主張に合致しないデータが捨象されているといった批判が出されました。「県民性」同様、「アメリカ人」という同じ括りにいるからといって、全員が同じ性格ではないはずです。また、この論法はなぜそれぞれの民族や集団が特定の型の文化を持つのか、その因果関係を説明しきれないという弱点もあります。 たしかに、特定の共同体にいる人々を特定の型にはめこむベネディクトの主張には危うさもあります。しかし、学説としては完璧ではないにしても、彼女の主張には当時の社会が見落としていた重要なポイントがありました。それが、それぞれの文化には固有のパターンがあり、そこに優劣はないとする点です。彼女の説には、それまでの人類学にはない新規性がありました。その意味で、ベネディクトの主張は文化相対主義の極致をなすものと言うことができるでしょう。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳