「シャドー・トレーディング」は違法なインサイダー取引か?
事案の概要
SECの訴状によれば、P氏は、事件当時、M社の事業開発担当社員であったが、大学の学部と大学院で生物学と薬学の学位を取得していたほか、トップクラスのビジネススクールでMBAも取得しており、2014年にM社に入社する以前には投資銀行でヘルスケア関連の投資銀行業務を手掛けた経験もあった。 P氏が、ファイザーによるM社買収に関するCEOからの電子メールを受領したのは2016年4月18日のことであり、P氏は、メール受信の数分後には、職場のPCを用いて行使価格が株式の時価を上回るアウト・オブ・ザ・マネーの状態となっていたI社のコール(購入)オプションを買付けた。I社はM社と同様に時価総額では中規模のバイオ製薬会社で、M社と同様に腫瘍病をターゲットとした新薬の開発実績を有していた。 2016年8月22日、M社は同社がファイザーによって買収されること、ファイザーによる株式公開買付け(TOB)の価格は時価を相当程度上回ることを公表した。この日M社の株価は約20%上昇し、I社の株価も約8%上昇した。P氏が取得した個別株オプションは価値が倍増し、P氏は10万7,066ドルの利益を得た。
インサイダー取引をめぐる法令と判例理論
SECは、上述のようなP氏の行為が、1934年証券取引所法10条(b)項及びSEC規則10b-5で禁じられているインサイダー取引にあたると主張した。なお、証券取引所法10条(b)項は、SECが定める規則に違反して証券の売買に関連した「相場操縦的あるいは詐欺的手段(manipulative or deceptive device)」を用いることを禁じる規定である。また、同項の規定に基づいて定められたSEC規則10b-5は、証券の売買に関連した「欺罔のための手段、計画または技巧」を用いることを禁じており、日本の金融商品取引法(以下、金商法)の不公正取引を禁じる一般規定(金商法157条)の母法とされる規定である。 米国のインサイダー取引規制は、SEC規則10b-5という抽象度の高い規定の適用をめぐるSECの審決や連邦裁判所の判例の蓄積によって形成されてきた。こうした判例法によるインサイダー取引規制を支える理論は、時代とともに変遷を遂げてきた。近年では、特定の上場会社に関する重要な未公表情報を知った者が、当該情報の情報源に対して負う信頼義務に違反して、当該情報を不正流用(misappropriate)したことをインサイダー取引責任の根拠として位置づける不正流用理論(misappropriation theory)が、支配的な判例理論となっている。