両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.17
まさに「地獄」の様相を呈している――2021年に発生した軍部によるクーデター以降、ミャンマーでは軍事政権の国軍(ミャンマー軍)と、軍事組織としてのKNLAを有するKNU(カレン民族同盟)やカチン州、シャン州、カヤ州などの武装勢力が組織した反政府(反軍事政権)の連合的武装組織PDFの戦闘が激化している。今年に入り、軍事政権はついに18歳以上の国民を徴兵するとまで発表した。 2024年現在、ミャンマーに向けられる視線は「反民主的な軍事政権VS民主化を求めるレジスタンス的武装勢力」の構図一色に塗りつぶされているが、はたしてクーデターが発生する前のミャンマー、そのディテールに目を向けていた者がどれほどいただろうか。 本連載は、今では顧みられることもなくなったいくつかの出来事と、ふたつの腕で身体を引きずるように歩くカレン族の牧師を支えた日本人武道家を紹介するささやかな記録である。
少年期
本間学は昭和25年(1950年)、秋田の佐竹藩城跡である北の丸(現在の千秋公園)で生まれた。父親は、旧佐竹藩においてそれなりの格を与えられた名家の長男であった。戦前の本間家は満州に住んでいた。父親が軍人であったからだ。 満州国での生活は当然のごとく裕福なものであった。当番兵が官舎に常駐し、部隊への出勤は六人の兵隊が随行し、父は馬上の人となって悠々と行った。毎朝、長兄が母に抱かれ、そして長女が女中に手を取られて馬上の父を見送る生活であったという。 しかし、父親は第2次世界大戦の趨勢を理解していた。満州国崩壊の序章が始まったとき、インドネシアに転戦することになった父親は、家族にこう告げたそうだ。 「この戦争は負ける。早く日本に引き揚げろ」 といっても、その言葉を聞いたのは学本人ではない。今は亡き母親だが、彼女は夫の言いつけを守り、ふたりの子供を連れて一目散に引き揚げた。生まれ故郷の秋田県に戻ったのは、関東軍が敗走する以前の事である。慧眼を持った父親はどうなったか。 インドネシアを転戦していた父親はコタラジャで捕虜となり、戦後2年ほど経った頃にやつれた姿で秋田に帰還した。