《ブラジル》寄稿=DELFIM NETTO氏を悼むー元通訳の回想=サンパウロ大学法学部シニア・プロフェッサー・二宮正人
教え子をデルフィン・ボーイズとして重用
かつての軍事政権時代においては、政権交代が生じて閣僚就任の要請があるたびに、デルフィン・ボーイズ(DELFIM BOYS)と称されたサンパウロ大学経済学部の教え子を十数人単位で率いて省内の局長級の各ポスト、中央銀行、BNDES、その他の要職につけたことによっても有名であった。 そのなかでも28歳で中央銀行理事、その後INCRA(農地改革院)総裁を務めた故横田パウロ(PAULO YOKOTA)氏、経済企画省経済局長を務めた池田昭博(AKIHIKO IKEDA)氏、電力公社理事のMASATO YOKOTA氏等の名前を挙げることができる。 私は第5軍政令の公布によって史上最悪と評価されたメジシ政権下ではUSP法学部の学生であり、反政府学生運動に参加していた。卒業後、文部省国費留学生として日本に滞在中、在京ブラジル大使館における通訳のアルバイトを通じて、訪日するブラジル政府要人と知りあうことができた。最初の通訳は、メジシ政権下のジアス・レイテ(DIAS LEITE)鉱山動力大臣であった。その後のガイゼル政権においては、植木茂彬(SHIGEAKI UEKI)鉱山動力大臣をはじめとして、1976年のガイゼル大統領訪日を含む多くの政府要人の通訳を務めた。 初めてデルフィン・ネット氏の通訳を務めたのは横田パウロ氏がフィゲイレード政権の一員として訪日してきたころにさかのぼる。横田氏は私より10歳年上で、それまでは面識がなかったが、彼の厳父は私の父と同業で、しかも同じジョアン・メンデス広場で洋服仕立て業を営んでいた。 そのこととは関係ないが、彼はなかなか気難しい性格で、日系社会の多くの先輩から毛嫌いされていた。しかし、通訳としての私の能力を認め、また日本関係の専門家としてデルフィン・ネット氏をはじめとする、当時の政府中枢の人々に紹介してくれた。 私は1983年に日本留学を終えてブラジルにもどり、サンパウロ大学法学部の教員任用試験を受験する準備をしていたが、留学中の縁で、横田氏を通じてデルフィン・ネット氏の対日関係の補佐を務めるようになった。私はその関係で経済企画大臣やINCRA総裁補佐官、つくば万博ブラジル館設立委員等を拝命し、当時のブラジル政府要人のみならず、政府機構の仕組みも知ることができた。
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