「ウクライナ軍として配備されていたら、プーチンは侵攻したやろか?」トルコにオランダ…友好国の海軍を見て不肖・宮嶋に浮かんだ“ある思い”
イラン・イラク戦争で日本人を救ってくれた
トルコはそれから確固たる親日国家となり、ロシアを日露戦争で破った日本にさらなる親しみを覚えるようになり、1980年突如勃発したイラン・イラク戦争で日本人を救うことになる。 イラン・イラク戦争でイラン首都テヘランに、邦人215名が取り残された。当時自衛隊機どころか自衛隊を海外に派遣する法令すらなく、日本政府は海外で唯一運航していた路線を持つ日本航空に邦人救出を依頼するも当然断わられ、途方に暮れていた。そこに「我々トルコ人はエルトゥールル号の恩を忘れていない」と救いの手を差し伸べてくれたのがテヘラン駐在のトルコ大使や、トルコ航空やったのである。かくして命がけのフライトになると承知でテヘラン空港に舞い降りたトルコ航空機で215名全員が脱出できたことはあまり知られていない。
さらに、エルトゥールル号事故にはさらに後日談がある。1990年、イラクの独裁者サダム・フセイン大統領に率いられたイラク軍がお隣の産油国クウェートに突如侵攻して始まった湾岸戦争、それに対抗した多国籍軍の反撃を恐れ、フセイン大統領はイラクの首都バグダッドに駐在していた日本人商社マンらを人質として某所に監禁した。 その救出にイラクに向かうと同時にバグダッドで歌や踊りやプロレスの興行まで打ち、失意の日本人商社マンとその家族をはげまそうと図った生前のアントニオ・猪木参議院議員(当時)らに経由地のイスタンブールまでチャーター機を手配し、実際向かったのもトルコ航空である。不肖・宮嶋もそのチャーター機に乗っており、機内では気勢を上げるため機内放送のマイクを使い、河内家菊水丸氏らの歌合戦が始まったが、飛び入りでそのチャーター機の機長もコックピットから歌合戦に参加してきたのにはびっくりしたのを昨夜のごとく覚えている。まあ結局は猪木氏らのご尽力のおかげというよりサダムの気まぐれで日本人に限らず、全国籍の人質が解放され、その後多国籍軍のイラク空爆が始まることになり、その禍根はイラク戦争まで尾を引くことになる。