27歳で結婚した共演俳優との別れ、2度の活動休止も…「後悔するような生き方はしたくない」49歳になった内田有紀の“まぶしい人生”
彼女と同じ髪型にするのが流行った
ショートカットは彼女にボーイッシュで中性的なイメージをもたらすことになる。当時のファンに若い男性ばかりでなく10代の女性が多いのはそのためだとも分析された。実際、女子高校生のあいだでは彼女と同じ髪型にするのが流行った。 CMにも多数出演したほか、1994年10月にはシングル「TENCAを取ろう!~内田の野望~」で歌手デビューした。売り上げは2週間で50万枚を突破し、女性ソロ歌手のデビュー曲では初めてオリコンのヒットチャートで初登場1位という快挙を達成した。翌月のリリース記念イベントには、会場のよみうりランドの収容人員8000人を超える3万人が詰めかける過熱ぶりであった。
イメージと素の自分との間にギャップを感じていた
だが、その裏で内田は、世間で持たれているイメージと素の自分とのあいだにギャップを感じていたらしい。いつも元気で明るいというイメージもついていただけに、落ち込んでいるときも無理して自分を奮い立たせてきたものの、明るく振る舞おうとすればするほどギャップは広がるばかりだった。 1997年には一旦活動を休止した。《自信がなかったから、人気があったり仕事があったりすることが怖かった。やめたいと思ってたし。それで一回ちょっと離れたいって》と、内田はのちにその理由を明かしている(『AERA』2010年12月13日号)。 翌年夏ぐらいまで休業したのち映画『BEAT』(1998年)で復帰した。それでもなお、ファンから「内田有紀がいい」と言われても他人事みたいで、芝居や歌がうまいわけでもないのに一体自分の何がいいのかわからなかったという。そのもどかしさを克服するには中身をつけなければと思い、24歳だった2000年、劇作家・演出家のつかこうへいが主宰する「北区つかこうへい劇団」に飛び込んだ。
つかこうへいからの容赦ない指導
同劇団では入団したその年に『蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』、翌2001年に『新・飛龍伝 私のザンパノ』に出演する。後者は筆者も観に行ったが、ほかの出演者が全員若い男優というなかで、内田が立ち回る姿はただただまぶしかった。彼女自身はつかから指導を受けた経験を次のように振り返っている。 《つかさんが教えてくれたことはたくさんありますが、一番大きかったのは、自分をさらけ出すことがいかに大事かということ。「人間というのは、元来かっこ悪かったりダサかったりするものだ。それをさらすことが、人間同士、一番通じ合えることなんだから、とにかく噓をつくな。失敗でも恥さらしでも何でもいいから、恐がらずにやるだけやってこい」と、言われました。私、そういうところにすごく共感したんです》(『婦人公論』2002年2月22日号) もっとも、そのためにつかは容赦なく役者の弱点を突いて追い込み、丸裸にした。内田もさんざん攻め込まれ、ときに屈辱感も味わった。たとえば、食事中に箸についたご飯粒をペロッと舐める癖を見られており、いつのまにか劇中に、相手役から「おまえ、箸ペロペロッて舐めるけどよぉ」と言われる場面が用意されていたという。 つかとの出会いは、内田に責任というものを意識させることにもなった。自分で選んだ演技をつかにぶつけるとあって、悩みに悩んで食事が喉を通らないこともあったらしい。 《でも、そういうときに、自分を追い詰めるんじゃなくて、どこまでも面白がっていられればいいなと思ったし、それを面白がれる人でいたい、と願うようにもなりました。私、これまで常に「明日、結果を出そう」としてきたような気がするんです。でも今は無理にそうしようとは思わない。今日やったことは絶対明日に残るはず、そう信じて、今を精一杯生きたいんです》(『FRaU』2001年2月13日号)。