『べらぼう』江戸のメディア王・蔦屋重三郎が活躍した時代、キーパーソンとなる田沼意次を見いだした「ダメ将軍」
■ 家重のもとで地道に頭角を現していく田沼意次 意次は忠光と共に家重を手厚くサポートした。家重の抜てきによって、意次は40歳のときに1万石の大名となっている。 田沼意次といえば、賄賂政治が問題視されながらも、さまざまな商業改革を主導したことで知られる。だが、意外にも家重のもとでは、それほど目覚ましい活躍はしていない。出自が低い新参者にすぎなかった意次には、譜代や門閥層のような人脈もなく、おとなしくせざるを得なかったようだ。 それでも、後宮にこもりがちな家重と、城に出入りする諸大名の間で、意次はうまく立ち回りながら、折衝役としてのポジションを地道に築いていく。月のうちに20日は城中に寝泊まりしたとも伝えられている。 そんな意次が幕政に本格的に参加したのは、宝暦8(1758)年に評定所首座になってからのこと。家重は宝暦10(1760)年3月23日に50歳の賀を迎えたが、それから約1カ月後に忠光が他界。忠光を失ったショックからか、その2カ月後に嫡男の家治に将軍の座を譲っている。 その後、家重は大御所になるも、翌年死去。51年の生涯を閉じた。『徳川実紀』によると、後継者の家治に「田沼意次を重用するように」と遺言を残したという。
■ 意次が培った自由な空気が蔦谷重三郎を育んだ コミュニケーションが不得手な人ほど、周囲をよく見ていたりするものだ。頭角を現し始めた意次の才を、家重はしっかりと見抜いていたようだ。 次期将軍の家治は、そんな父・家重の遺言を守って意次を重用。意次はその才をいかんなく発揮し、経済改革を次々と打ち出して商業を発展させた。 意次が生んだ自由な空気の中で江戸文化が花開く中、出版人として台頭したのが、今回の大河ドラマ『べらぼう』の主人公、蔦屋重三郎である。 本稿で背景を書いてきたように、意次自身もまた将軍・家重に抜てきされて、成り上がってきた立場だ。才ある若者である重三郎をどのようにバックアップするのか。また、重三郎は出版人として、どんなアイデアを実現するのだろうか。今から楽しみである。 そして、意次が失脚して松平定信が老中になると、重三郎のビジネスは大きな危機を迎えることになる。重三郎の前に立ちはだかったのは、定信による「寛政の改革」だ。政治の風刺を行う出版物を出していた重三郎は、財産に応じた罰金刑が処されることとなる。 重三郎はどう盛り返していくのか。田沼時代とどれだけ状況が変わったかも気になるところである。 ドラマでは、重三郎が「江戸のメディア王」として名をはせるプロセスを、じっくりと見ていくことにしよう。 * * * 本連載「真山知幸の大河ドラマ解剖」では、『どうする家康』『光る君へ』に続き、今回の『べらぼう』でも、大河ドラマをより楽しめるような解説を行っていきます。1年間、お付き合いいただければ、うれしく思います。(真山) 【参考文献】 安藤精一他『徳川吉宗のすべて』(新人物往来社) 後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院) 館林市史編さん委員会編『近世館林の歴史』(館林市) 藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房) 鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書) 鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社) 倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社) 真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
真山 知幸