23歳の中島みゆきがオーケストラ演奏を断り、ギター1本で『時代』を歌った理由…「持ち歌は?」の問いに「130曲」と答えた当時の凛々しさ
1975年12月21日、中島みゆきの『時代』がリリースされた。発売当初はそこまでの大ヒットとはいえなかった曲だが、現在では誰もが知るスタンダード・ナンバーに。弱冠23歳の中島みゆきが世に送り出した名曲の秘話を紹介する。 【画像】23歳の中島みゆきが写る『時代』のジャケット写真
中島みゆきのデビュー条件「レコードは出すけど、それ以外の活動はしない」
1975(昭和50)年5月。23歳の中島みゆきは、『第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に『傷ついた翼』という曲で入賞し、そこから本格的な音楽活動に入った。そして9月25日にキャニオン・レコードより『アザミ嬢のララバイ』でレコード・デビューする。 リリース直前の16日、父親が脳溢血で倒れ、昏睡状態で病院に運ばれた。彼女が東京から北海道の病院に駆けつけても、父の意識は戻らなかった。 そんな状況で中島みゆきはひっそりとデビューした。 「レコードは出すけど、それ以外の活動はしない」というのが本人の希望する条件だったので、テレビやラジオなどへの出演、マスコミへのプロモーションなどはまったく行われなかった。 10月に予定していた『第10回ポピュラーソングコンテスト』(通称ポプコン)への出場をキャンセルしたとしても、家族の切迫した状況を考えれば何の不思議もない。 しかし、『時代』という新曲を作った中島みゆきは、10月12日に開催されたポプコンに予定通りに出場する。この時は父の病室から静岡県のつま恋(リゾート)に向かい、会場のエキジビションホールに入ったという。 そして12,000曲にのぼる応募曲の中から、『時代』は見事にグランプリに選ばれた。 その年のポプコンで優勝した楽曲と、優秀曲2曲が世界歌謡祭の日本代表となる取り決めになっていた。中島みゆきは『時代』で、因幡晃の『わかってください』、ONの『失うものは何もない』とともに、世界歌謡祭に出場することになった。それが新しい世界に続く道となる。
オーケストラの演奏をなくし、自らのギター1本だけで歌い始めた
「音楽こそ世界を結ぶ大きな絆」というテーマを持って開催された『第6回世界歌謡祭』は、日本武道館で11月14日と15日の2日間行われ、32ヵ国から46曲が参加してライブによる熱戦が繰り広げられた。 ここでも『時代』は、メキシコから参加したミスター・ロコの『ラッキー・マン』と並んで見事グランプリを受賞した。 中島みゆきはこの時、グランプリ受賞後のパフォーマンスをする際に、オーケストラの指揮者に何やら耳打ちをした。すると本選にはあったオーケストラの演奏は奏でられることはなく、自らのギター1本だけで『時代』を歌い始めたのだ。 それは新人歌手にすれば前代未聞の行為だった。だが、武道館という大きな会場の舞台の上で弾き語りだけで歌える才能と、それにふさわしいスケールが大きな楽曲が誕生したことを意味していた。 https://youtu.be/Ry_bpaKDcAo 『時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)』。中島みゆき公式チャンネルより そこには自分を発掘してくれた恩人、ポプコンの創設者であり、ヤマハ音楽振興会の理事長・川上源一へのお礼の気持ちが込められていたという。 川上は全国から寄せられた応募曲を聴いて、自ら優れた曲をチェックするなど、当時の商業主義とは異なる新しい音楽の発展に注力しようとした。さらにアマチュアから本物の才能を見出して、ヤマハ音楽振興会が世界に通用するように育てていく方針を掲げた。 ポプコンの人気がピークに達していた1975年。川上は応募曲の中から『時代』という作品に耳を留めた。恋人同士の恋愛を描いた作品が主流だったその時代に、『時代』という歌の新鮮さはひときわ輝いて聴こえたのだ。 そのスケール感のある歌をつくった才能に驚いた川上は、中島を呼んでこう激励した。 「あなたはすごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育って欲しい。できれば大音量をバックにするよりも、ギター1本で歌った方が、あなたの詞が人々に伝わる」 そんな言葉の支えもあって、中島は最後にギター1本で歌ったのである。 以来、中島みゆきは自らのアルバムのスタッフクレジットに、必ず「DAD 川上源一」という文字を記載している。DAD は"父親"、あるいは敬意を込めて"師父"という意味がある。