『モネ 睡蓮のとき』展示の模様をレポート 史上最多の〈睡蓮〉に没入する体験を
日本では過去最大規模でモネの〈睡蓮〉が集まる展覧会『モネ 睡蓮のとき』が国立西洋美術館で10月5日からスタートした。世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館からの約50点におよぶ来日作品に加え、国内各地の名作が一堂に集まり、モネの真髄に迫る展覧会だ。 【全ての写真】『モネ 睡蓮のとき』展示作品ほか(全14枚) 印象派を代表する画家、クロード・モネ(1840~1926)は、光の移ろい、水のきらめき、自然の移り変わりを絵にとどめ続けた。40歳を過ぎて移り住み、終の棲家としたジヴェルニーでは、川の水を引いて「水の庭」を創設。日がな一日岸辺で絵を描き続けていた。 この展覧会では、そんなモネが心を惹かれた〈睡蓮〉の連作を中心に、晩年のモネ芸術の展開を全4章+エピローグという構成で辿っていく。 「第1章 セーヌ河から睡蓮の池へ」では、モネがジヴェルニーに移り住む前に描いたセーヌ河やロンドンの「水のある風景」に着目する。モネは1896年から98年にかけ、ジヴェルニーからほど近いセーヌ河をモチーフにした連作を20点ほど制作した。モネはこの連作の制作にあたり、毎朝3時半に起床し、14点ものカンヴァスを並行にして光と大気のうつろいを描き止めていたという。《セーヌ河の朝》、《ジヴェルニー近くのセーヌ川支流、日の出》もその連作の一部。この連作は当時非常に高く評価されていたという。 「第2章 水と花々の装飾」は、モネが取り組んでいた装飾画について取り上げる。装飾芸術が華やかだった19世紀末、多くの画家達が装飾画に取り組んでいた。モネもその一人で、1890年代以降、モネの心のなかに睡蓮をモチーフとした装飾画の構想が湧き上がってくる。 1920年、モネは合計12点の睡蓮を描いた装飾パネルをフランス国家へ寄贈することに合意。当初計画していた設置場所、オテル・ビロンの形状に合わせて、藤の花をモティーフにしたフリーズ(帯状の装飾)を設置することとした。《藤》は、そのフリーズの習作の一つで、伸びやかなストロークで藤の花が描かれている。その後、財政上の問題から設置場所は現在のオランジュリー美術館に変更となり、藤のフリーズは構想段階で止まってしまった。 オテル・ビロンの装飾画を計画するにあたり、モネはアガパンサスを主題の一つとして3つのパネルからなる習作を制作した。青紫、黄緑のグラデーションを当時の批評家は「融けた金」と評したという。 オランジュリー美術館にモネの装飾画が展示される計画が本決まりとなると、70代になっていたモネは精力的に制作に乗り出し、おびただしい数の作品を生み出すようになる。巨大化する作品に応じて、モネは新たに広大なアトリエも建設している。 「第3章 大装飾画への道」では、展示室内にオランジュリー美術館の楕円形の空間を再現。睡蓮の池に囲まれ、これまでにない没入感を楽しむことができる。できるだけ長い時間を作って、この空間でモネを感じてみよう。 なお、この空間には国立西洋美術館が所蔵する《睡蓮、柳の反映》も展示されている。この作品は松方幸次郎がジヴェルニーでモネから直接購入した作品。大装飾画のなかでモネが唯一生前に売却を認めた作品だ。なお、本作品は第二次世界大戦後に所在不明となり、2016年に上部が欠損した状態でルーヴル美術館にて発見された。 モネは、1908年ころから白内障の症状に苦しめられる。病状が悪化すると、モネの色覚の一部は変容し、また視力の悪化もあり作品が次第に抽象化していく。「第4章 交響する色彩」では、抽象表現主義をも彷彿とさせる、モネの晩年の作品を辿っていく。 展覧会の締めくくりとなる「エピローグ さかさまの世界」では、第一次世界大戦中に描かれた枝垂れ柳を描いた2点の作品が展示される。枝垂れ柳はうなだれ、涙を流すかのような姿をしていることから、悲しみ、服喪を象徴するモティーフとして知られている。 水と光、睡蓮のうつろいを生涯にわたって描き続けたモネ。初期の貴重な作例から最晩年の作品まで、モネ芸術の到達点ともいえる〈睡蓮〉の変遷をつぶさに辿ることができる貴重な機会だ。 取材・文・撮影:浦島茂世 <開催情報> 『モネ 睡蓮のとき』 2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)、国立西洋美術館にて開催