“ありったけの地獄集めた”沖縄戦とは 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
多くの住民の犠牲や集団自決
沖縄戦の悲劇として語られる第一は、一般住民の多くが戦火に巻き込まれた事実があります。実は沖縄戦が始まる以前から学童を中心とした疎開は進められてきました。しかし輸送船が狙われるのではないかという恐怖や本土の根深い沖縄への差別意識で容易にはかどらず、多くの人が首里周辺から今の南城市や糸満市へと避難していました。その糸満に司令部が移ってきて、バックナー中将も手を緩めなかったので、結果として多くの住民が命を落としました。 集団自決も報告されています。「鬼畜米英」とすり込まれていたからとか、捕虜の保護を定めたハーグ陸戦条約などの知識が不足していたとか、諸説存在します。近年最も問題になっているのは軍による強制があったか否かで両論あります。 象徴的な悲劇として語られるのが、ひめゆり学徒隊でしょう。教師を育成する沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(15~19歳)222人や引率の教師18人によって編成され、第三二軍直下の病院で負傷兵の看護などにあたりました。戦局が絶望的になった6月18日に解散命令が出され、行き場を失った多くが摩文仁などに追い詰められ、戦場をさまよっているところで砲弾などを受けて教師13人、生徒123人が犠牲になりました。戦場は誰にとっても悲惨ですが、学徒隊はまだ若い女子生徒であったので悲劇性がひときわ高く、戦後になって注目されるようになりました。 多くの民間人の死者を出した沖縄県民にとって、沖縄戦は本土の犠牲にされたという思いがあります。確かに陸軍の宮崎周一参謀本部第一部長は、沖縄戦について「結局敵に占領せられ本土来寇(らいこう)は必至」と捨て石にするかのような発言をしています。ただ宮崎部長は熱心な本土決戦論者で、彼の思い通りにことが運んでいたら本土も沖縄同様の災厄に見舞われていた可能性が高く、昭和天皇の「聖断」で回避されるとは、予想だにしていなかったでしょう。 第三二軍の司令部移動とそれに伴う多くの住民の死も「日本軍は県民を守らなかった」という気持ちにさせました。首里を去る際に戦局は決まっていたのに続行したと。攻める側のバックナー中将にも同じような指摘がアメリカでもなされており「不要だった」という声もあります。 (※)牛島中将の自決の日をめぐっては6月22日説もある。
--------------------------------------------------- ■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】