“ありったけの地獄集めた”沖縄戦とは 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」 と刻まれた沖縄戦は、日米合わせて20万人以上が亡くなり、沖縄県民の死者数も約12万人以上と推計されています。1945年3月末から始まり、6月23日に事実上の戦闘が終わりました。天皇陛下も皇太子時代に「記憶しなければならない日」として挙げた4つのうちの一つを「沖縄の戦いの終結の日」としています。「70年前の今日」という節目で改めて振り返ってみます。
日本で唯一の地上戦?
沖縄戦のことをよく「日本で唯一の地上戦」と言いますが、それは現在の日本国の領土に限ってのことです。だとしても、硫黄島の戦いがあるので正しい表記とは言えません。民間人に多数の死者が出たのは作戦上のさまざまな錯誤があったからと思われます。神社や寺、琉球王国の象徴であった首里城守礼門など8つの国宝が焼失、焼損しました。 慶良間(けらま)諸島への米軍上陸に始まり、4月1日からは沖縄本島へと展開、激闘の末、首里(那覇市)から司令部が移った摩文仁(まぶに、糸満市)の陣営が陥落したのが6月20日。米陸軍と海兵隊を相手に激闘を繰り広げた沖縄の主力である第三二軍の最高司令官であった牛島満(うしじま・みつる)中将が自決したのが23日とされています(※)。この日を沖縄県は「慰霊の日」と定めました。
本土決戦を遅らせるための持久戦
1945年、前年のレイテ沖海戦の勝利でフィリピン奪還のめどが立った米軍は、次に日本本土空爆拠点や船舶の寄港地、および九州上陸作戦への展開などを総合的に勘案し、至近の台湾を飛ばして沖縄に着目しました。現在でもそうであるように沖縄は東シナ海における要衝で日本軍の飛行場もあったので、それをわがものにしようという計画でした。 一方、日本の最高統帥機関である大本営は次が台湾か沖縄かで悩み、台湾の可能性を見越して第三二軍から兵力の一部を回しました。このあたりから第三二軍と大本営のコミュニケーション・ギャップが生じ、沖縄戦全体を覆うようになります。 第三二軍は44年半ばごろから首里を中心とした南部で、固いサンゴ礁の土地柄を生かした堅牢な地下陣地を張り巡らして米軍来襲に備えました。目的は本土決戦を少しでも遅らせる持久戦です。大本営は米艦隊の接近もしくは米軍上陸の際に、航空戦力で大打撃を与え戦意を喪失させる「天号作戦」を準備していました。