“ありったけの地獄集めた”沖縄戦とは 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
ところが沖縄戦に先立って米軍が仕掛けてきた九州沖航空戦で、海軍機が大幅に摩耗するなどの誤算があり、また大本営が航空戦の戦果を過大視したのもあって、4月1日の本島上陸に間に合わず、ほぼ無血のまま上陸を許しました。第三二軍は来るはずの友軍大編隊が現れず、不可解な思いを抱いたまま当初の予定通り地下陣地を中心とする守りを固め待ち構えます。その結果、中北部にある北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納市)の守りが手薄になり、あっという間に敵の手に落ちてしまいました。ちなみに後者が現在の米軍嘉手納飛行場です。 大本営は慌てました。「天号作戦」は航空兵力による作戦なのに、飛行場をあっさり奪われたのではたまりません。そこで第三二軍にしきりと「攻勢に出よ」と督促します。しかし、そうしたら肝心の陣地守備がままなりません。結局、すでに分断されてしまった北部の攻勢は行ったものの、かなりの兵力を失ったに過ぎず、以後押し寄せる米兵と海からの猛烈な艦砲射撃と空爆に耐えながら、陣地を死守する方針に一本化されます。 4月5日ごろから陸戦が始まりました。米陸軍を率いるバックナー中将があくまで正面突破にこだわったため、地下通路を自在に往来し、ゲリラ戦のような戦いを挑んでくる日本軍に何度も手痛い思いをさせられました。また砲兵が、太平洋戦争の島をめぐる戦いの中ではかなり充実していたのも米軍の心胆を寒からしめた要因です。 艦砲射撃で援護し、物資を輸送する米海軍は、九州や台湾から発する日本の航空部隊の特別攻撃(体当たり作戦)で甚大な被害を受けました。それでも戦力に圧倒的な差があり、地下陣地の入り口をふさいで通気口からガソリンなどを流し込んで火災を起こさせる戦法が功を奏し、次第に日本軍は追い詰められていきます。 5月末、戦闘継続のため、第三二軍は司令部を最南端の摩文仁へ移すと決めて移動を開始します。実はこの頃、大本営陸軍部は沖縄戦をあきらめて援護を縮小しています。バックナー中将はこれを追い、6月20日の摩文仁の事実上の陥落で沖縄戦は終結に向かいます。なおバックナー中将はこのさなか戦死しています。