【証言・北方領土】国後島・元島民 池田英造さん(1)
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後、自力脱出したり、残された人たちは旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太経由で日本本土に送還させられています。 それから70年近くの日々が過ぎましたが、元島民はどんな歳月を過ごしてきたのでしょう。今も忘れられない故郷の生活や島への思いを語ってもらいました。 ---------- 池田英造さん(83)=北海道根室市=は国後島で生まれ、旧ソ連兵に占拠された島から、船で脱出しました。どんな風に島を脱出したのか。そして、今もふるさとをどう思っているか、話しました。
俺は新制中学4年卒……引き揚げ後、1年間中学に行けなかった
――自己紹介お願いします。 語り部に行って、私、自己紹介やるんです。あんまり勉強好きでなかった。登校拒否のほうが多かったもんですからね。それで、語り部に行くとね、会場に恐れなして、自分の時間来たときに、膝かぶが、とまんないのさ、震えが。それで、その震えとめなきゃ、きょう語り部成功できるかなという不安で、演題に立ったときに、一つばくち打つの。っていうのはね、「これから語り部やらしてもらいます。私を知ってもらわないと、できないでしょう」、「私は新制中学4年生卒でして」。わかる。 ―― いや、わからないです。 今の中学が新しくできたとき新制中学って表現してたからね、それ3年でしょ。その4年生卒。登校拒否、今でいうと。実は当時は北方領土から来て、食糧難で、自給自足の時代でしょ。芋とかカボチャとか採る土地がなかった、畑がなかった。それで、近所の地主さんが、芋、カボチャまくのにって、土地を貸してくれたのさ、ただで。それが木の生い茂った密林みたいなところ貸してくれた。その開拓に父とか母とか大変な思いしたんでね。そのとき、1歳半の弟が一番下でいたのさ。その守りのために、1年間学校、中学1年行けなかった。 それで、4年生ね。中学の先生が友だちに伝えてよこしたんだ。「今、いいけども、大人んなったら大変なんで、学校へ連れてこい、って言われたから来た」ってね、友だちが2人迎えに来てくれた。何の抵抗もなく、空かばん担いで学校行ったのね。そのときに、「おまえな、もうみんな基礎進んでね。おまえのクラスは2年生だぞ。基礎ないと困るんで1年からやり直ししないか」って言われたんで、「したら、お願いします」って抵抗なく受け入れて。 そして、授業始まったときに、たまたま隣の相棒から、前の日の帳面借りて写してたのさ。当時、社会っていう科目があったの。社会の時間だったんでね、写した。先生、後ろに来てたの知らなかったのさ。して、その先生が、「おまえ休んでた割に一生懸命やってるな」って言われた。その言葉で動かされたの。「よし、俺はこの先生についていくぞ」と。それから、もう社会という科目には、大体、自信あってね、夢中でやりましたよ。それこそ勇気ついてね、勉強するようになったんだけど、もう時、遅かったね。だから、今でいえば登校拒否っていうことで表現したほうがええっていうことでね、やってんですけども。 ――時代に翻弄されてますよね、その当時。 うん、うん。北方領土から来た食料事情の困難なときに、やむを得ないもんね、自給自足やらなきゃ。 ――生年月日を教えてください。 昭和8年5月27日。 ――終戦のとき12歳。 12歳。6年生の秋ですからね、島離れたの。 ――終戦のときの記憶もありますか。 元島民で、俺らが最低限度、島の知識知っているの。俺らより下の人はね、島の知識はないです。