藤原道長が出世したのは、「タイミングのおかげ」だった!?
平安時代の最高権力者と言われる藤原道長。なぜ彼は出世できたのか? そこには、父・兼家が摂政となる「タイミング」が大きく影響していた。 ■一条天皇の即位と藤原道長の累進 円融に代わって即位した花山天皇の母は、死んだ伊尹の娘・懐子であった。そのため、花山には後見となる貴族がいなかったが、花山が即位すると、兼家の弟である大納言為光が娘忯子を入内させた。花山は忯子を寵愛するとともに為光を外戚に準じて重用し、永観2年末、忯子は懐妊した。 ところが、翌寛和元年(985)7月、忯子は出産前に急死し、花山は深く落ち込んだ。これを見た兼家は策謀に打って出る。花山の蔵人であった二男道兼に命じて花山を出家に誘導させ、天皇は寛和2年6月、密かに内裏から東山の花山寺に入り、出家して退位したのである(寛和の変)。これに伴い、皇太子懐仁が即位して一条天皇になり、兼家はようやく天皇外祖父として摂政に任じられた。 こうしたなか、道長は一条天皇の即位とともに蔵人に任じられると、同じ年のうち従五位下から3階級昇進し、従四位下になった。そして、翌永延元年には22歳で公卿になった。道長には13歳上の長兄に道隆、5歳上の次兄に道兼がいたが(二人とも母親も道長と同じ)、道隆の公卿昇進は3歳、道兼は26歳の時だった。兼家は遅咲きで、38歳にしてようやく摂政になったため、兼家の出世は、道隆・道兼より若い道長に多大な恩恵をもたらした。 この時期、摂関は天皇の外戚から任じられたから、その子に摂関を継がせようとすれば、外戚関係を再構築しなければならなかった。その場合、外孫が生まれても伊尹のように、その即位を見ることなく死んでしまうと、摂関の地位を子に継承することはできなかった。そう考えると、兼家は道長に貴重なボーナスタイムを残したといえる。 画像:国立国会図書館デジタルコレクション 監修・文/樋口健太郎 歴史人2024年2月号「藤原道長と紫式部」より
歴史人編集部