父に勘当され、東京に...八代亜紀さんが歩んだ「歌から離れられない人生」
昨年12月30日に亡くなられた、「演歌の女王」八代亜紀さん。 歌唱はもちろん、絵画においても才能を遺憾なく発揮されていました。生前、仕事であり、趣味でもあった"歌と絵"は人生になくてはならない存在だったといいます。 本稿では、八代さんの「好きなことに打ちこんだ人生」のお話しをご紹介します。(取材・文:亀山早苗) ※本稿は、『PHP』2023年11月増刊号より内容を抜粋・編集したものです。
「私は歌が好き」とはっきり自覚した瞬間
物心つく前から絵を描くのが大好きでした。余白がある紙を見つけると、描かずにいられなかったくらいだったそうです。その後、歌も大好きになりました。 これは両方とも父の影響なんです。父は絵や書がうまくて、そのうえ夜になると浪曲を歌っていました。私はまだ3歳でしたが、父の「母子物」の浪曲を聴いて、気持ちが揺さぶられたのを覚えています。 言葉をすべて理解できなくても、「音魂(おとだま)」「言霊(ことだま)」というのはあるんでしょうね。「私は歌が好き」とはっきり自覚した瞬間だったと思います。
「好き」は忘れていってしまう
きっとみなさんも同じように、子どものころに好きだったことはたくさんあるはずです。でも大人になるにつれ、だんだん仕事や日常生活が忙しくなり、時間に追われ、「好き」を忘れていってしまいます。 私の場合は、もちろん歌は好きだったけれど、プロになる直接の動機は家族を助けたかったから。私が12歳のとき、父が会社員を辞めて起業したんです。軌道に乗るまで大変でした。 父が聴かせてくれるレコードで知った、アメリカのジャズシンガー、ジュリー・ロンドンさんに憧れていた私は、自分もクラブシンガーになって親を助けたかった。でも、クラブシンガーになりたいと言って、許してくれる父ではありません。 だから、とりあえず「バスガイドになる」と、親や学校の反対を押し切り、高校に進学しない道を選びました。バスガイドなら歌も歌えるし一石二鳥だと思ったんです。 ところが私、ものすごくシャイなのです。だから試験に通ってガイドになったのはいいものの、お客様を乗せるとほとんどしゃべれない。何も言えずに、名所旧跡を通りすぎてしまうんです。 バスが熊本市内に入るとき、ちょうど朝日が昇るタイミングで、カーラジオから「朝日のあたる家」が流れてきたとき、私がしたいのはこれじゃない、と気づきました。 それで、両親には内緒でバスガイドを辞めて、八代市内のキャバレーで歌い始めました。狭い町のことですから3日で父にバレて、激怒されました。あんなに怒った父は見たことがありませんでした。 「お父さんの子じゃなか」と勘当されて、東京に出てきたんです。住む場所などは、心配した母が親戚に頼んで段取りしてくれました。 ただ、それから4年くらいは父と一言も口をきかなかった。お互い「もっこす(頑固者)」なんですよね。それからは銀座のクラブで歌い、21歳でレコードデビューしましたが、さっぱり売れなかった。 ひとりでレコードをトランクに詰め、全国のキャバレー回りをしました。そのころようやく勘当も解けて、父はずいぶん応援してくれましたね。歌うことはつらいとも辞めたいとも思わなかったけれど、ケジメをつけたいとは感じていました。 それで「全日本歌謡選手権」という番組に出場したんです。10週勝ち抜けば世の中の人に知ってもらえる。これでダメなら「八代亜紀を捨てよう」と。そこで無事に10週勝ち抜き、「なみだ恋」という歌に巡り合えたおかげで、今の八代亜紀がいるんです。