23歳で引退決断「この前、ガス点検に行ったんです」名門・履正社“初の甲子園制覇”の主将が語った転身…社会人5年で「プロを諦められた」ワケ
社会人でも2度の日本一も…23歳の若さで引退を決断
それでも23歳でプレーヤーとして終止符を打つのは、少し早いのではないかと誰もが気に掛ける。 「それは言われます。受け取り方は人それぞれですけど、僕からすると5年もやっていたら……という感じなんです」 5年も、という言葉に、野口自身が歩んできた社会人野球の5年間の“重み”を感じる。 小学校ではソフトボールから白球に慣れ親しみ、中学時代は松原ボーイズに所属。日本代表を経て、履正社の門をくぐった。 目標は明確だった。 「もちろん、プロ野球選手になることでした。でも、自分が履正社に入学した春は、履正社が(17年のセンバツで)準優勝した直後で、4月の頭にグラウンドに行ったときに、安田(尚憲・現ロッテ)さんや(若林)翔平(現・日本新薬)さんなどテレビで見ていた人が目の前にいて、ちょっとオドオドしながら高校野球が始まったのを覚えています」 センバツ帰りの春の府大会直前に、当時の正捕手だった片山悠(現・オイシックス新潟)がケガをしたため、練習でエースの竹田祐(今秋ドラフトでDeNA1位指名)のボールを受けることになったのが野口だった。 「中学の時はいきなり上級生と(バッテリーを)組むことはなかったので、すごく緊張しました。でも、ピッチャーから色々言われながら受けることがなかったので、そのうち闘争心に火がついてきたんです」 偉大な先輩が多かったからこそ、「もっとうまくならなければ」と向上心が搔き立てられた。先輩達のレベルにまで引き上げられるように猛練習を重ね、1年夏から府大会でベンチ入り。 準決勝の王者・大阪桐蔭戦でも打席に立ち、当時のエース・徳山壮磨(現DeNA)からセンター前ヒットを放っている。その秋から出場機会が増え、背番号は2ケタながら以降の公式戦はほぼマスクを被った。 場数を踏めば踏むほど、持ち前の責任感はさらに強くなっていった。 「自分は中学2年までは内野手で、捕手としての経験は浅かったんです。中学でも日本代表に選んでいただいていましたけれど、ただ“受けているだけ”って感じで……。高校でここまで経験させてもらって、もっと変わっていかないといけないと思うようになって」 相手打者の仕草や癖を細かく分析するなど、捕手としての探究心が芽生えていったのも1年の秋以降だった。
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