古代エジプトの踊りはなぜこうも魅力的なのか、多く残された絵や彫像から歴史を読み解く
よろこびを表す自由な踊りへ
古王国時代のあとは、中央による支配体制が弱体化した第一中間期と呼ばれる動乱期が訪れる。その後の中王国時代(紀元前1975~1640年ごろ)の特徴として挙げられるのは、新たな中央政府のもとで盛んになった芸術活動だ。 この時代には、体系立っていた儀式舞踊が変化を見せはじめる。神殿の聖域で限られた神官しか見られなかった舞が、人目に触れる儀式でも行われるようになった。たとえば、神殿から神像を持ち出して、ほかの神の神殿を訪れる行進のときだ。 これには一般の人々も参加でき、踊りは自由なものになっていった。厳粛なものだった初期の舞から大きく飛躍して、よろこびを表す生き生きとした踊りに変わっていった。 『シヌヘの物語』は、中王国時代に成立した古代エジプトの文学作品だ。この中に、踊りがよろこびを表すものに変容したことがわかる一節が含まれている。 シヌヘというエジプト人が王国から逃亡し、しばらく外国で生活するものの、どうしてもエジプトに戻りたくなる。王が帰ってきたシヌヘを迎え、エジプトでの埋葬を許したとき、シヌヘは思わず踊りを始める。「私は叫び、歌いながら、あたりを歩きまわった。街もまた祝祭気分で、若者たちはよろこびの踊りを踊っていた」 中王国時代の踊りは、それ以前よりも優雅で激しいものになり、腹ばいになって、手が足につくくらい背中を反らしたりする踊り手の姿が見られるようになる。男性の踊り手もよく登場するようになり、つま先でくるくる回る絵もある。
踊り手の姿が一変した新王国時代
一方、新王国時代(紀元前1539~1075年ごろ)に勢力が頂点に達すると、踊り手の姿は一変する。スカートやドレスをスカーフや帯に替え、髪をほどき、足首などに美しい装身具をつけて、アイシャドウで化粧するようになった。 音楽も進化した。さまざまな弦楽器が加わり、踊り手の動きにも影響を与えたようだ。また、エジプト南部からやってきたヌビア人の踊り手たちの独特なステップも取り入れられた。 進化しても、踊りが宗教儀式で重要な位置を占めていた点は変わらなかった。新王国時代の墓の絵には、「ムー」と呼ばれる葬儀専門の男性の踊り手たちがよく描かれている。上エジプトのファラオの王冠を思わせる植物繊維の冠を付けた彼らは、死者を死後の世界に運ぶ神々の化身だった。 古代エジプトの宗教は、通過儀礼に追いやられるどころか、生活と一体になっていた。現実の世界に霊が存在するという考え方が、踊りを含む芸術に象徴として現れていた。 鏡の舞はそのひとつだ。踊り手がペアとなり、片手に木の棒やクラッパー(拍子木)を、もう片手に鏡を持つ。鏡は実用品であり、舞の中でも光を反射して輝く。 それだけでなく、鏡には象徴的な意味もあった。円形の鏡は地平線上の太陽にも似ており、それは太陽神ラーでもある。エジプト人たちが死後に願う復活を司る神だ。 星の舞は、太陽が東から西に通過する様子を表し、生と死のサイクルを象徴した。中央に立つメインの踊り手は、それぞれの手で両脇にいる二人のサブの踊り手の手を取る。 現在の地中海地域には、フラメンコのほか、バレエのアラベスクやピルエットといったさまざまな伝統舞踊がある。学者たちは、これらの舞踏のルーツを、古代エジプトの踊りの動作と結びつけて考えている。 古代エジプト人にとって、踊りは死後の世界で生を約束するためのものだった。それが今、古代エジプトの墓に残された芸術作品を通して、決して滅びることがないものとして歴史に残り続けている。
文=Elisa Castel/訳=鈴木和博