大の里、幼少期相撲で負けると山でライバルの名前を叫んだ…進路などは自分で全部決めてきた
◆大相撲 夏場所千秋楽(26日、東京・両国国技館) 初土俵から7場所目で最速優勝を果たした新小結・大の里の父・中村知幸さん(48)や恩師らが、強さの原点を語った。 【写真】初優勝を飾り支度部屋で目頭を押さえる大の里 相撲どころ・石川県生まれの大の里は、全国青年大会無差別級準Vなどアマ力士だった父・知幸さんの影響で相撲を始めた。生まれた時から4000グラム超と大きく、けがとは無縁。母・朋子さん(48)が「負けると山に行ってライバルの名前を叫ぶこともあった」と話す負けん気もあり、小4で全国少年相撲選手権団体戦で準Vを果たすなど名を知られる存在になった。だが、小5以降は負けることが増え、壁にぶつかった。 転機は中学で新潟・糸魚川市の能生中に越境留学する決断だった。同市にある海洋高相撲部入部を見据えての行動。小5の頃、テレビの企画で元テニス選手の松岡修造氏が同校を訪れ、名門校進学を逃した「雑草集団」が努力する姿に胸を打たれたからだ。「何かを犠牲にしないと強くなれない」。石川にも強豪校はあり、反対の声も上がったが、「全部自分で決める性格」(知幸さん)と意志は曲げなかった。 能生中では当時監督だった田海哲也氏(63)の下、携帯電話の使用も厳しい寮生活の中「365日相撲に集中する生活」。帰省中に知幸さんが相撲を教えようとすると「僕は新潟の選手」と拒否。父は「頭をハンマーでガーンと殴られたような衝撃。成長を感じた瞬間でもあった」と振り返る。 高校時代のタイトルは1つとさみしい。相撲部屋から勧誘も受けたが、日体大に進学を決めると急成長。アマ横綱など個人13冠に輝いた。プロによる“争奪戦”が繰り広げられる中、二所ノ関部屋を選んだ。理由はのどかな茨城・阿見町にあり「中高と同じように誘惑がない」からで「新潟に6年間、大学に4年間、文句なく送り出してくれた両親には感謝しかない。早く上に上がって楽にさせたい」。厳しい道を選んだことは間違いではなかった。 今場所は取り口のバリエーションも増えるなど進化中で、田海氏も「角界の大谷翔平になれる」という逸材。自ら道を切り開き、土俵に大輪の花を咲かせた。(山田 豊)
報知新聞社