二十歳のとき、何をしていたか?/関 暁夫 ひねくれていた自分を、友人や先輩が引っ張り上げてくれた。思いがけず掴んだ、都市伝説という武器。
杉並区の不良少年が、島の寮生活で海の男に。
この冬もまた『やりすぎ都市伝説』が放送された。パネラー陣が嘘か本当か定かではない都市伝説を語る、テレビ東京の人気番組である。放送開始時、フリーメイソンの話や千円札の謎で「都市伝説」というジャンルを再燃させた第一人者が、レギュラーの〝Mr.都市伝説〟こと関暁夫さんだ。しかし関さんは「都市伝説だと思って話したことは一度もないんです」と言う。その真意とは? 話は10代に遡る。 【取材メモ】思い出話中も真実のキワを鋭く突く関さん。 「中学生の頃は不良になるかストリートに行くか、駆け引きが試された時代でした。東京スタイルというか、冷めているのに主張はしたい、ひねくれてましたね」 関さんは東京の杉並区で育った。中学時代を過ごした’90年代初頭は、非行の形がヤンキーからチーマーへと移り変わる過渡期。ご多分に漏れずヤンチャだった関さんは、進学を機に伊豆大島にある全寮制の海洋高校に入ることになった。 「手を付けられない子の最後の砦で、東京中のワルが島流しみたいに集まっていて(笑)。同じ不良だし、と気楽に先輩に接したら、『男はそうじゃないだろ!』とビシッと怒られてしまった。上級生はすっかり海の男になってたんです。結局、学校で海の教えを叩き込まれるんですよ。船上ではひとりのミスが事故に繋がるから、連帯責任や自己責任とは何かを徹底的に考えさせられる。ひねくれてた俺も、3年間で180度人間性が変わりました。最初の転機ですね」 卒業後の進路はマグロ漁船か海上自衛隊の二択。電車通学にも憧れたし、いずれ実家の寿司屋を継ぐ気持ちもあった関さんは、地元に戻って調理師専門学校に入学した。そこで相方の千葉公平(旧芸名・金成公信)さんと出会う。 「お笑いが好きだったし、意気投合して『吉本行くか!』って。でも海外のおもちゃのバイヤーにも興味があったから、卒業して1年間、単身渡米したんです。ツテもないし英語も喋れないけど、とりあえずシアトルを攻めて、見よう見真似でコミュニケーションをとって。LAでスター・ウォーズの関係者と繋がってグッズを大量にもらったりしてました」 すごい行動力! でも、帰国すると自宅に引きこもってしまったという。 「根っこにはまだ卑屈な自分がいて、表に出られなかったんです。成人式にも行かないって思ってたけど、中学の同級生の森ちゃん(スケーターの森田貴宏さん)が『暁ちゃんさ、引っ込んでないで外出ろよ』って無理やり式に連れ出してくれて。昔の友達と久しぶりに会って、何かが変わった。人前に出ることを面白く感じたんでしょうね。成人式に出なかったら、芸人になってなかったと思います」 二十歳で2度目の転機を迎えた関さん。集めたおもちゃで商売を始めるか! と腰を上げた瞬間、相方が上京。「吉本に行く話は?」「お、覚えてるよ」と、21歳で吉本興業の門を叩いた。こうしてバイヤーを諦めた関さんは、晴れてNSC東京の2期生になる。1期生に品川庄司、後輩にあたる3期生にトータルテンボス、4期生にインパルスや森三中と、実力派が揃った東京吉本の黎明期だ。卒業後はハローバイバイを結成し、銀座7丁目劇場に出演。極楽とんぼ、ココリコ、ロンドンブーツ1号2号といったそうそうたる先輩に続き、テレビ出演の機会も得た。ただ、レギュラー番組はあれど、心の内では「鳴かず飛ばずだった」という。 「当時はみんな、30歳手前になると芸人を続けるか辞めるか悩んでたんです。今は30代、40代の芸人はたくさんいるけど、2000年代初めは芸人ブーム前で全くいなかった。つまり成功例がない。履歴書に〝29歳〟と書くのと〝30歳〟って書くのとでは全然違うし、就職するなら早いほうがいい。徐々に追い詰められました」