道上洋三アナの心に残る言葉「遠くの親せきより近くのラジオやねえ」 ── 阪神淡路大震災から20年
ABC「おはようパーソナリティ」の道上洋三アナウンサーが阪神淡路大震災から20年、今だから言えることのエピソードを披露 THE PAGE大阪
「『遠くの親せきより、近くのラジオやねえ』その言葉が今も印象に残っています」と語るのは、ABC朝日放送ラジオの番組「おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)」の道上洋三アナウンサー(71)。同番組は今年3月で放送開始から38年を迎える人気長寿番組。だが今から20年前の1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生した日からの放送は、生涯忘れられないものとなった。
震災発生、時間たつごとに来る情報に背筋凍る
あの日、道上アナは午前6時半からの放送の前にスタッフと打ち合わせをしていた。そこへ大きな揺れが襲った。「あの時、会社は停電。ラジオは『おはようパートナー』が放送中でオンエアは20秒くらい中断した。僕はスタッフと机の下に隠れたけど、テレビは棚から落ちてきたり尋常ではなかった」 自身の番組が始まるも、当時やっていた電話受付のお嬢さんたちは来ないし、報道局に実際の震源地などがすぐに入ってこなかった。ただ、午前7時くらいまでは電話がつながったため、同局の社員が電話でレポートや報道局に入ってくるニュースを流すなどしていた。 午前7時半ごろになって「阪神高速が倒壊し観光バスが落ちそうになっている」「阪急電車の上に高架が落ちている」といった情報がはいってくるたびに背筋が凍ったという。番組終了後、次の番組のパーソナリティである月亭可朝が同局まで来れず、道上アナが引き続き番組を担当。神戸に自宅がある当時のアシスタント高野あさおには「早く帰り」と言い、家に返した。 高野は車で帰宅しようとするも、渋滞に巻き込まれた。停電で信号が稼動せず道路が混乱していたため大阪市北区の同局を出て12時間たっても、兵庫県尼崎市で止まったままだった。そこで道上アナは、高野に伊丹市の自宅へ来るように言い、高野は2~3日、道上アナ宅からABCへ通った。
細かい生活情報流すも、それが裏目に出た面も
日がたつにつれ、ファクスや電話がつながるようになってきた。電話の情報で「どこでお風呂が入れる」「透析のできる病院はここです」「○○避難所の水が足りない」などの情報を率先して放送で流す日々が続いた。 しかし、紹介した場所に人が殺到して混乱が起きたり、「そこばかり紹介して不公平じゃないか」といったお叱りを受けるなど、結果的に裏目に出てしまった面もあった。 この年は放送18年目。「自分たちが何か動いたりすれば、多少、世の中が良い方向へ向かうのでは」と思ったりもしていた。だが、そうしたことがことごとく日々「打ち砕かれていく」現実に悩んだ。 「復興と言いながら1か月たっても様子が変わらない。『無力感』を感じましたね」。日がたっても良い話は聞こえてこない。パートナーの高野あさおは、神戸から毎日がれきを見ながら通勤。被災したリスナーからのファクスやはがきを見ては、涙を流す日々が続いた。