「ハシゴ車を使ってでも窓から母を見たかった」大和田美帆 残された家族の本音「美帆には大丈夫と言っておいて」と岡江久美子は伝言を残し
4月6日、なかなか体調がよくならないので、父と一緒に病院に行くことに。ただ、母もまさか自分が入院するなんて思ってもいなかったからいつものバックだけ持って歩いて行ったんです。父の話だと、医者に「10のうちどれくらいつらいですか?」「6です」と答えたそうですが、酸素濃度は80前半だったようで。母が息苦しさとか自覚症状があったのかどうかわかりませんが、その場でコロナと診断がついて即入院。すぐに人工呼吸器もした方がいいと言われました。
── 予期しなかった展開ですね。 大和田さん:父が急いで入院グッズを取りに帰ってる間にも状況が変わって、ICU(集中治療室)で気管挿管(口腔から管を挿入すること)をした方がいいと。一度挿管すると10日間は眠ったままになると聞いて、母は、「不安だけど10日後にはよくなってるといいな」って言っていたそうです。私には「美帆には大丈夫って伝えておいて」って父から伝言されたのが最後。ほんと、あれよ、あれよという間に信じられないっていう言葉がいちばん合うんですけど、数日前まで母とメールしていたのに、こんなことが起きていいんだ?って思うのがやっとでした。
■「こんな弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ」 ── 当時は緊急事態宣言も出ていて、家族ですら面会もできない時期だったとか。 大和田さん:4月6日から亡くなった23日まで、この時期がいちばん地獄でした。私と父は離れて暮らしていたので、1日1回先生から父の携帯に母の症状を伝える電話が掛かってきて、父から私にも内容を伝えてもらっていたんです。 私は娘とふたりで暮らしていましたが、病院の近くに住んでいても中に入れない。父だって愛する妻がこの中にいるってわかっているのに入れない。コロナ禍初期で、より緊張感があった時期かもしれませんが、何かせずにはいられなくて、防護服を着て母のところに行きたいって言ったけどダメ。母の携帯が近くにあるだろうから、母に音楽を流させてくれないか。または、孫の声が好きだから孫の声を聞かせてあげられないか。あと、はしご車を借りて外から母を見たいとか、いろいろ提案したんですけど、すべて父が却下。父は病院から毎日電話をもらっていたので、電話の後ろから医療従事者たちが逼迫しているのがわかると言うんです。父はとても真面目なんですけど、母の入院中に何度かけんかしました。父に「こんなに弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ…!」って言われてから私も何も言わなくなりましたが、病院から掛かってくる電話をただただ待つしかできないのは、私も父も本当につらかったです。