伊藤比呂美「中国とズンバ」
大人数のクラスでやってみて、おもしろいことに気がついた。 先生は鏡に向かっている。みんなはその後ろ姿を見ながら見よう見まねで動く──というのがどこでも基本なんだけど、なんとそのクラスでは、先生の後ろに、人々が学校の朝礼みたいな列を作って、ぴしっと並んだのである。きょーつけ、前へならえ、みたいな並び方だから、最前列の人以外、前の人と重なって、鏡にうつる自分が見えない。 自分が見えないと、自分の手足や筋肉の動かし方も見えない。すると先生の動きをちゃんとまねできてるかどうかもわからない。 そこであたしは考えた。鏡とは──。 たとえば美容院の鏡は──。否応なしに自分の老いをさらけ出し、否応なしに自分の母と向かい合う鏡である。 家の中の鏡は──。自分の好きなように自分を見る鏡であり、まだまだイケるなと思う鏡である。 ところがズンバの鏡は、自分の動きや筋肉や体形を、ただありのままにうつし出す、そのための鏡なんである。 そんなことを考えていたとき、アヤ先生があたしの詩集を読んだと言ってきた。 「詩集なんか読むの初めてだったけど、すごく読みやすかった。ひろみさんを知ってるせいですかね。なんだか今どきの人たちって、人がどう思うか、何を言うか、そればかり気にしているけど、ここに書いてあるのは自分のことだけ。ひろみさんは自分のことしか見てない。書いてない。それでいいんだなあと思ったんですよ」とアヤ先生は言った。
先生。ズンバで、鏡を見るというのも、そういうことじゃないですか。ありのままの自分と向かい合う。 先生の真似をして動くけれども、先生がどこをどう動かしているか、それを見極めねばならぬ。見極めたら、それを自分の身体に適用しなければならぬ。 適用するためには、自分の身体を観察して凝視して知悉(ちしつ)しなければならぬ。とどのつまり自分で自分を知らねばならぬ。 あたしはあたしであった。いえい! ズンバとは、あたしであった。いえい! それなら、あたしは、すなわちズンバであった。いえいえい! アヤ先生が言うのである。 「最初にスタジオに入ってきたとき、ひろみさんは、肩が開いてなくて、腹筋がゆるんで、背中が一枚板みたいに固まって、肩からお腹まで沈んでるから、頭が前に出ていて、そんな上半身をのっけて、足だけで歩いてるみたいに見えた。そして『あたしはあと二十年仕事をしたいから、それまで仕事のできる健康な体でいたい』って言いました」 本人はそんなことすっかり忘れてズンバぢゃズンバぢゃと夢中でやっていたが、そうだった、切実な気持ちがあった。やりたい仕事がまだある。それをやり遂げたい、そのためには何より健康を保ちたいという相当な覚悟があったのだと今さらながら思い知る。
伊藤比呂美