《高輪ゲートウェイ駅前開発》3年前は盛りあがった「高輪築堤」保存論争、このまま尻すぼみでよいのか
その記者会見では、喜勢陽一・JR東日本社長が登壇し超高層のツインビルが並ぶ完成予想図などを披露しながら開発の意義を説明した。披露されたイメージ図を目にすると、第2期工事が始まる5~6街区も同様の開発プロジェクトが立ち上がることが予想される。
我が国の歴史や文化をどう保存し、後世へ伝えるか
高輪築堤が建設された当時は、鉄道への風当たりが強かったこともあり内陸部に線路を敷設することが難しかった。鉄道当局は苦肉の策として、品川駅から新橋駅までの線路を海上に建設。この海上に線路を敷設した用地が高輪築堤と呼ばれる。 無事に新橋駅―横浜駅間は開業を果たしたが、すぐに運行される列車の本数は増えていき、それに合わせて線路も増設されていった。品川駅―新橋駅間は1876年には複線化し、1899年には3線化、1909年には4 線化する。同年には、東京駅開業に伴う品川駅の大拡張工事が着工。約26万平方メートルを埋め立てて車両基地の用地となった。 こうした線路用地の拡大の過程で高輪築堤は埋められていき、大正期から地中深くに眠ったままになっていた。明治時代の錦絵など、伝聞によって存在は知られていたものの、正確な記録は存在しない。そのため、高輪築堤が出土したことは歴史的大発見という事態だった。 そして、高輪築堤は港区域だけではなく品川区域にも埋蔵されているとも推測されている。今後、品川区側が開発によって埋もれている遺構をどのように記録、保存するかなどの問題が浮上する可能性は高い。そのときも、今回、公開された遺構へのような曖昧な態度によって「過ぎたもの」として扱うだけになるのだろうか。だが、高輪築堤は港区やJR東日本だけの話ではなく、我が国の歴史や文化をどう保存し、後世へと伝えていくのか、という問題でもある。