早く知りたかった、「勉強できる人」と「勉強できない人」の決定的な違い
なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。そもそも「経営」とはなんだろうか。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 経済思想家の斎藤幸平氏が「資本主義から仕事の楽しさと価値創造を取り戻す痛快エッセイ集」と推薦する13万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が日常・人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語る。 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
勉強は経営でできている
図書館や喫茶店などにおいて一心不乱に教科書や参考書を蛍光ペンでカラフルに塗りたくっている人に出くわすことがある。 みるみるうちに三、四、五本と次々に新しい蛍光ペンが登場して彩りが足されていく。ときどき「ああっ、ピンクがもうないじゃん」などと愚痴をこぼしている。どうしようもなくなって、充血させた目をひん剥いて「だめだ、ピンクがなきゃ」と、インクが切れた蛍光ペンを買いにダッと駆け出すことも珍しくない。 こうしてようやく出来上がった充血と腱鞘炎の結晶の「作品」は確かに美しい。だが果たしてその人は本当に色彩豊かな現代アートを作りたかったのだろうか。それとも本当は「勉強」をしたかったのだろうか……。 きっとカラフルな教科書・参考書を作っている最中の脳波を測定してみれば、記憶をつかさどる海馬よりも視覚をつかさどる後頭葉が活性化しているだろう。
誰がために紙を貼る:注意喚起におけるグレシャムの法則
もちろん教科書等の重要箇所を蛍光ペンで強調すること自体は意味がある行為だろう。しかし「強調されていない箇所を見つけるのが難しいほどに」強調箇所が多くなればもはや何も強調していないのと同じである。 注意を向けるべき場所が多くなりすぎれば、注意の総量は変わらないのだからひとつひとつに対する注意の量は減り、かえって注意散漫になって暗記は難しくなる。 これを傍証する例として実在する温泉浴場の例がある。脱衣所から洗い場につづく戸には「すべります! 転倒注意」という古い張り紙がしてある。その温泉の泉質には特有のヌメリがあり過去に転んで大けがした人が何人もいるそうだ(何を隠そう私もその中の一人だ)。 いざ洗い場に入ってみると、ボイラー機器のところには「高温のためタオルを置かないでください!」。湯船のところには「段差があります!」。挙句の果てには「洗面器はゆずりあって使いましょう!」とか「サウナ内での大きな声での会話はお控えください!」といった、あまり重要性がないものまで同じ大きさの張り紙がしてあることに気が付く。 張り紙の古さから推測するに最初は本当に重要な転倒注意の張り紙だけだったのだろう。しかし、張り紙の効果によって転倒事故がなくなってくると、より軽微な問題が目につくようになる。そこで次にそうした軽微な問題に対処するための張り紙が増え、段々とほとんど意味のない張り紙であふれていく。 ただし、それぞれの張り紙に配分される注意の量は変わらない。そのため「どうでもいい問題への注意が重要な問題への注意を締め出す」という、注意における「グレシャムの法則(悪貨は良貨を駆逐する)」というべき状況が生まれる。こうして大事故は繰り返されるわけだ(何を隠そう私もそうして頭にたんこぶをもらった一人だ)。 このように本来の目的だった大けがの予防は「手段のひとつであるはずの張り紙の増加によって妨げられる」わけである。これは温泉客に入浴上の危険について勉強してもらうはずが本末転倒の結果に終わった事例とも解釈できるだろう。 これも経営失敗の喜劇だ。事故に遭った当人からすれば悲劇ですらある。 その温泉で頭を打った私は後日心配になって脳外科に駆け込んだ。その結果「私の妄想癖は温泉で頭を打ったせいではなく元々の性格だ」という、知らずにすんだはずの真実を知るという悲劇に見舞われた。