全米シニアOPで惜敗の藤田寛之 「遅咲き、早咲きではなく、同じスピードで」海外挑戦20年で花開いた“マイペース”の哲学
「海外挑戦は僕の最高の幸せで、最高のわがまま」
その全英オープンで41位タイになった藤田は、「メジャーで戦うことは、こんなにいいものなのか」と感動したそうで、それからの彼はチャンスがある限り、メジャー大会やビッグ大会、そしてPGAツアーの大会に挑むようになっていった。 しかし、結果はなかなか出せず、ほぼ毎回、がっくり肩を落として去ることになった。 41歳にして初めてオーガスタナショナルの土を踏んだ11年マスターズでは、開幕前に6ラウンドをこなす猛練習を積み、「自分なりのゴルフができる準備はした」。 その甲斐あって初日は14位タイの好発進。しかし、2日目は一転してボギーの連続で79と大きく崩れ、予選落ちとなった。 それでも藤田は「このマスターズで2つのことをもらいました。1つは、自分の技術では、ここでは、いっぱいいっぱいであること。もう1つは、ショットが安定すれば、自分もここで、それなりのゴルフができるということです」。 夢にまで見たマスターズに初出場し、実際に戦うまでは「夢すぎて何も現実的ではなかった」そうだが、予選落ちという現実を突き付けられたとき、初めて「やっと現実になれた」と、彼は苦笑した。 「今回はスタートラインでちょっと一緒にやらせてもらっただけ。ゴールはほど遠い。でも、これで終わりというつらさではないですからね」 その言葉通り、打ちのめされても終わりにはせず、その後も海外のメジャー大会、ビッグ大会に挑み続けた藤田は「海外挑戦は、僕の最高の幸せであり、最高のわがままなのかもしれない」と常に語っていた。 同時に彼は、自分の後に続く日本の若い選手たちの将来未来をいつも気にかけていた。 「海外のメジャーに出て、日本にはないような、すごいコースセッティングを経験すると、日本の若い選手たちのことが心配になる。自分はいろんなサポートを得て、こうして海外の試合にいろいろ出してもらっているけど、日本の若い選手たちがもっともっと海外の試合に出られるようなシステムが、もっともっとできてくれたらいいと心底、思います」 それは、ミドルエイジになって、ようやく海外試合に挑み始めた自分自身の反省の弁のようにも聞こえたが、おそらくは日本の先輩プロとしての責任感が彼にそう感じさせていたのだと私は思う。 藤田がPGAツアーに初めて挑んだのは02年のソニーオープンだったが、それから10年後の11年3月、ホンダクラシックで自身初のトップ10入りを果たし、大喜びした彼の姿は今でも脳裏に焼き付いている。 だが、せっかく波に乗り始めた翌週のキャデラック選手権で、東日本大震災のニュースが飛び込んできた。 試合会場だったフロリダ州マイアミのドラールリゾートでは、さまざまな情報が交錯し、米メディアは出場していた日本人選手に駆け寄っては、取材を求める混乱状態に陥った。 しかし、それでも試合は予定通りに行われ、早いスタート時間だった藤田はたくさんの不安を抱えながら黙々と戦った。そしてホールアウト後は数十人の米メディアに取り囲まれ、ほとんど「おしくらまんじゅう」のような状況下、自身の頭の中も混乱していたというのに、米メディアの質問に1つ1つ丁寧に答えていった姿には「世界の舞台に立てば、自分は日の丸を背負っている」と考える彼の日本人選手としての気概と責任感が溢れていた。