ノーベル平和賞「喜んでいる場合じゃない。核兵器が1発も減らない」 日本被団協の元新聞記者が“核兵器廃絶”訴える
1歳の時、母親に連れられ原爆投下の2日後に広島市内をさまよった。いわゆる「入市被爆」。その数十年後、新聞記者として日本被団協に出会ったことが人生の大きな転機に…。12月、オスロで開かれる授賞式に参加する1人の男性に迫る。 【画像】12月、オスロでの授賞式に参加する日本被団協代表理事・田中聰司さん(80)
母と焼け野原を…1歳で入市被爆
「79年前の広島の出来事は昔話ではない」 神奈川県から修学旅行で広島市を訪れた高校2年生360人を前に、被爆証言を行う田中聰司さん(80)。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表理事を務めている。 1944年3月9日、田中さんは軍人だった父親の勤務地・山口県下関市で生まれた。 広島に原爆が投下された2日後、当時1歳だった田中さんは母親と共に親族が暮らす広島市へ。いわゆる「入市被爆」である。 母親は幼子を連れて野宿をしながら親族を探しまわったという。もちろん田中さんに当時の記憶はない。でも母親から聞いた悲惨な光景は脳裏に焼き付いている。 「焼け野原に入っていくんだけど、爆心地から2キロくらいは全滅だから、家の跡がどこにあるかわからない」 やっとの思いで親族と再会した。しかし… 「軍隊から持ってきたわずかな塗り薬をつけたりして手当をするんだけど、6人いた親族のうち4人が1カ月以内に亡くなった。亡くなった人は校庭の片隅に次から次へと山積みにされて、石油をかけて焼かれるんですよ」
大学寮の風呂場で感じた「差別」
東京の大学に進学した田中さん。それは、自分が“被爆者”であることを痛感する始まりでもあった。 「広島から出て初めて東京に行くと、全国の人が集まる中で自分の立ち位置みたいなものがわかってくるじゃないですか。俺、被爆者なんだと。出身地を紹介しあって広島だと言ったら『原爆の時どうしていた?』と必ず聞かれる。僕は『たいしたことない』と適当にごまかしていたんだけど」 寮生活を送る中で、心が傷つく出来事があった。 「仲のいい友達がいたんだけど、一緒に風呂に入って隣で体を洗っていたときに『田中、放射能ってうつらないんだろ?』って言ったんですよ。原爆投下から20年経っているのに、まだそんなことを思っているのかと思ってね。それが精神的に『被爆者で差別された』と思った最初だね」 その後、田中さんは被爆者であることを隠して生活するようになった。