ノーベル平和賞「喜んでいる場合じゃない。核兵器が1発も減らない」 日本被団協の元新聞記者が“核兵器廃絶”訴える
メモも取れなくなった新聞記者時代
大学卒業後は広島に戻り、地元の中国新聞社に就職。原爆や平和の取材にも携わるようになる。 「自分よりもっともっとひどい被爆者を知るし、小頭症の取材をする時にはメモも取れなくなって、胸がつまって…。もう記者をやめようかなと思った」 新聞記者を続ける中で転機となったのは、日本被団協との出会いだった。 「被爆者たちが被爆を自分の問題だけでなく人類の問題として捉えて、人類の危機を救おうと活動している人がいるんだと感銘を受けた。これじゃいけないと思って」 被爆者としての自らと向き合うようになった田中さん。「被爆者健康手帳」を取得した時には、原爆投下から約50年が経っていた。 2006年、自らも日本被団協のメンバーとして活動を開始。それから約20年間、核兵器の恐ろしさと廃絶を訴え続けてきた。
「無数の犠牲者に代わって訴える」
田中さんが力を入れてきた活動の一つが、被爆体験の継承だ。 被爆者の平均年齢は85歳を超えた。「被爆者なき時代」は間違いなく訪れる。次の世代が平和への思いを引き継いでほしい…そう願って、修学旅行で広島を訪れた高校生たちに語りかけた。 「平和のために自分は何ができるのか。そういうことを考えられる人間になっていただきたい。広島で学習したことも時々思い出して、広島の方を振り向いてほしい」 田中さんは、50歳を過ぎてから食道がんなど6つのがんを患い、今も治療を続けている。 口元を指して言った。 「ここのちょうど裏側にがんができてね。60歳になって原爆症とわかった。いつまたがんができるかわからない。昔話じゃないんですよ、原爆の被害は今も続いている」 声が思うように出なくなり、長時間話すのも苦しい現状。放射線治療の後遺症で咳が止まらなくなることもある。それでも「話せる間は語っていこう」と決めている。 「僕がここまで生きてきたということは、無念の思いで犠牲になった無数の人たちに代わって訴えることは何なのか、『核兵器をなくせ』『被害者を再びつくるな』『私たちと同じ思いや苦しみを他の人にさせてはならない』ということを合言葉に、先人たちが会を作って訴えてきた活動を引き継いでいかなければいけない」 2024年10月、被爆80年を前に「日本被団協のノーベル平和賞受賞」が決まった。ウクライナ侵攻や緊迫化する中東情勢など、世界で核兵器の脅威が高まる中での受賞だ。12月、ノルウェー・オスロで開かれる授賞式に田中さんも参加する。 「喜んでいる場合じゃないんですよ、本当に。核兵器が1発も減らないじゃないですか。核保有国をテーブルにつけて話し合いの場をつくってほしい。それを呼びかけようと思っています」 ノーベル平和賞受賞を核兵器廃絶に向けた一歩にしたい。田中さんたちの思いは世界を動かすかもしれない。 (テレビ新広島)
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