【皇室コラム】 「その時そこにエピソードが」 第24回 <両陛下が訪ねたインドネシアの〝いちばん長い日〟>
■スカルノら民族運動の活動家を取り込んだ軍政
ジャワ島の軍政は陸軍「軍政監部」の受け持ちでした。最初に直面した問題が、民族運動の指導者で、長く流罪となっていたスカルノとハッタの処遇です。東京に「火遊び」という懸念がある中、積極的に取り込む方針が採られ、2人も独立のために協力します。 1943(昭和18)年10月、軍政当局は諮問機関として「中央参議院」を置き、スカルノが議長に就きました。翌11月、スカルノ、ハッタら3人が東京に招かれます。ビルマやフィリピンが独立を果たす中、残された不満を解消するためでした。昭和天皇は握手で迎え、東条英機首相は4度会見し、勲章が3人に贈られました。 軍政下、公用語は日本語、年の数え方は「皇紀」とされ、「日の丸」掲揚が求められました。青年団や婦人会、隣組が作られ、組織化が進められます。コーヒーなどの輸出が途絶えて経済は停滞し、コメなどの強制買い上げによる食糧不足が人々を苦しめました。イスラム教徒にとって神聖な頭をすぐたたく日本兵は恨まれ、ハッタが改めるよう求めるほどでした。 とりわけ悪評高かったのが、男たちを重労働に駆り出した「ロームシャ(労務者)」の徴発です。400万人とも言われます。映画「戦場にかける橋」で知られる「泰緬(たいめん)鉄道」(タイ~ビルマ)の建設工事にも送られ、劣悪な環境に多くの人が亡くなりました。 それでも歓迎されたのが「郷土防衛義勇軍(ペタ)」の創設でした。オランダ時代は軍事訓練さえ禁止され、祖国を守る義勇兵に青年たちが集まりました。終戦時には日本軍の倍の約3万8000人にも上り、独立に向けて大きな政治勢力になっていきました。 1944(昭和19)年9月、小磯国昭首相は「独立容認」に大きく舵を切ります。「絶対国防圏」としたサイパン島が陥落、マリアナ沖海戦で惨敗し、民心掌握の重要性が増したからでした。民族運動の歌と旗が許され、「独立準備調査会」が置かれました。
■ナイフを手にクーデターを迫った青年グループ
1945(昭和20)年8月――。緊迫の日々は、『スカルノ自伝』(黒田春海訳、角川文庫)や『ハッタ回想録』(大谷正彦訳、めこん)など関係者たちの手記を総合して追います。 7日。軍政当局は「独立準備委員会」の設置を発表します。1か月後の独立を予定し、正副委員長にスカルノとハッタを内定します。 9日。2人は南方軍司令官(元帥)の寺内寿一に呼ばれて「フランス領インドシナ(仏印)」へ向かいます。11日、サイゴン(現ホーチミン)に近いダラットで司令官から「速やかに独立準備を」と命令され、14日、ジャカルタに戻りました。御前会議でポツダム宣言の受諾が決まったのは10日です。終戦が〝秒読み〟となる中で独立は急がれました。 翌15日。日本の終戦はすぐ噂となって広がります。スカルノは18日に予定されていた「独立準備委員会」を16日10時に早めました。 夜10時ごろ、青年グループの代表者らがスカルノを訪ね、「この手で真の独立を」とクーデターへの協力を求めます。「今夜、独立宣言を」。ナイフを手に脅すように近寄る青年に、「さあ首を切り落とせ」とスカルノが凄む場面もありました。自分たちで独立を宣言したい青年グループと、日本軍との衝突を避けたいスカルノらとの溝は深まるばかりでした。