【皇室コラム】 「その時そこにエピソードが」 第24回 <両陛下が訪ねたインドネシアの〝いちばん長い日〟>
■「文化部隊」が民族の旗と歌であおった〝独立心〟
戦前のインドネシアは「オランダ領東インド(蘭印)」と呼ばれていました。オランダは1602年、東インド会社を設立して植民地経営を始め、その後、国家が直接統治下に置いてきました。 「大東亜共栄圏」を掲げて日本軍がジャワ島に侵攻したのは1942(昭和17)年3月1日です。欧米の経済封鎖をはね返し、石油やゴムなどの戦略物資の獲得が目的でした。オランダなどの連合軍は9日には降伏し、陸海軍が分担して軍政を敷きました。 「白い人々に何百年も支配されるが、やがて北の方から黄色い人たちが攻めてきて追い出してくれる……」。インドネシアには「ジョヨボヨの予言」という言い伝えがありました。 日本軍の侵攻は「予言」と重なり、熱狂的に迎えられました。日本軍が利用したのが、オランダの統治下で使用を禁じられていた民族運動の紅白旗「メラ・プティ」と、民族歌「インドネシア・ラヤ(偉大なるインドネシア)」でした。 大衆宣伝は〝文化部隊〟と呼ばれた陸軍の宣伝班が担いました。ドイツに倣った〝民心獲得戦〟の新しい部隊です。作家、詩人、画家、哲学者、音楽家、映画監督……。「徴用令状」で多くの文化人が集められました。その中に評論家の大宅壮一がいました。 大宅が入隊して最初に命令されたのが、独立心を吹き込んで民心をオランダから引き離す宣伝案でした。現地で暮らした班員の提案で民族歌に着目し、インドネシアの留学生が口ずさむ歌を作曲家の山田耕筰が譜面に取り、山田の編曲、指揮でレコードが作られました。開戦と同時にラジオで東京から現地へ放送され、侵攻後は各地で歌う機会が設けられました。 ところが、あまりに独立心をあおって大本営からすぐ禁止され、失望が広がります。大宅は著書『黄色い革命』(文藝春秋新社)に「〝大東亜共栄圏〟の理想は、日本人自身の方でぶちこわしたのである」と怒りをぶつけ、命令した宣伝班長(中佐)の町田敬二も著書『戦う文化部隊』(原書房)に「嬉しそうに軍のお先棒をかついで躍っていた宣伝班そのものが、統帥部に騙されていたとも言える成り行きだった」と〝恨み節〟をつづっています。