【皇室コラム】 「その時そこにエピソードが」 第24回 <両陛下が訪ねたインドネシアの〝いちばん長い日〟>
■16日 未明に誘拐されたスカルノとハッタ
スカルノとハッタが誘拐されたのは16日午前4時過ぎです。スカルノは、ファトマワティ夫人と、9か月になったばかりの男の子を連れていました。 ジャカルタには海軍武官府が置かれ、インドネシア人のスタッフがいました。後に初代外務大臣を務める調査部分室長のアフマッド・スバルジョです。朝8時に事件を知ると、調査部の西嶋重忠に連絡し、武官(少将)の前田精(ただし)の公邸へ走りました。海軍は陸軍がスカルノを予防的に拘禁したと疑いましたが、陸軍も行方を探していました。 午前10時。独立準備委員会にスカルノとハッタは姿を見せず、大騒ぎになります。スバルジョと西嶋が青年グループと接触を重ねます。やがて郷土防衛義勇軍(ペタ)が関わっていることがわかり、監禁場所に案内させる説得が続けられました。 午後6時ごろ。スバルジョは監禁場所の義勇軍の兵舎に案内されます。「真夜中までに宣言を」と促す義勇軍の幹部に、スバルジョは「時間が必要」と粘ります。「失敗した時は私を射殺していい」という条件で翌日正午まで待ってもらう譲歩を引き出し、スカルノ一家とハッタの4人は解放されました。 午後11時過ぎ。スカルノはジャカルタに戻ってすぐ動きます。まず、軍政監部の総務部長(少将)を訪ねます。日本軍と衝突することがないよう独立宣言の〝お墨付き〟を得ておくためでした。「降伏した以上、日本軍は現状を維持しなければならず、もう独立は支援できない」。総務部長は繰り返すだけでした。 青年グループに17日午前0時のクーデター計画がありました。スバルジョの交渉で中止となったはずですが、何が起きるかわかりません。「大丈夫か?」。スカルノの念押しに青年たちが連絡に走ります。その時刻は何事もなく過ぎていきました。
■17日 徹夜で行われた独立手続き
17日午前2時過ぎ、宣言の起草が前田の公邸で始まりました。武官の公邸なら陸軍も手が出せず、安全に責任が持てるという前田の好意でした。スバルジョの著書『インドネシアの独立と革命』(奥源造編訳、龍溪書舎)によれば、スカルノ、ハッタ、スバルジョらインドネシア側の5人と、前田、西嶋ら日本側の3人が食堂の丸テーブルを囲みました。 委員や青年グループら約50人が他の部屋で待つ中、作業は進められました。「われわれインドネシア人民は、ここにインドネシアの独立を宣言する」。スカルノが最初の一節を紙に書いて読み上げます。「抽象的な宣言だ」。ハッタの注文で討議が行われ、「権力の移譲、その他に関する事項は周到かつできるだけ迅速に行われる」と加えられました。 いよいよ準備委員会が始まります。イスはなく、委員はみな立ったままです。青年たちは隣室から委員たちを威圧していました。 委員長のスカルノが宣言案を読み上げます。「革命精神に欠ける」。青年グループの一人が声を上げ、議論は白熱します。問題となったのは後段の「権力の移譲」の部分です。青年たちは「奪取」にするよう求めましたが、委員たちが原案を支持しました。「権力を奪取」とすれば、日本軍を刺激しかねないからでした。 誰が署名するかでまた激論になり、スカルノとハッタが代表することでまとまりました。宣言はタイプされ、全員の前で読み上げられました。終わった時は朝でした。