南方文学の旗手、作家「中村地平」の実像に迫るドキュメンタリー映画。よみがえる「多様性の人」
宮崎県出身で、かつて太宰治とともに「北の太宰、南の地平」と称された作家、中村地平(1908~1963)のドキュメンタリー映画が完成し、各地で上映会が開かれている。 【全画像をみる】南方文学の旗手、作家「中村地平」の実像に迫るドキュメンタリー映画。よみがえる「多様性の人」 戦前の台湾を題材にした小説を多数発表し、「南方文学」の旗手として知られたが、敗戦を経て歴史の中に埋もれていった異色の作家。近く中村地平小説集の出版も企画されており、映画で脚本も手がけた小松孝英監督は、「多様性の人、中村地平の数奇な足跡や、彼の忘れ去られた小説作品を通じて日台関係について考えてほしい」と話している。 中村地平は本名、中村治兵衛(じべえ)。1908(明治41)年、宮崎市の裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学(現宮崎大宮高校)時代、作家、佐藤春夫(1892~1964)の台湾小説を読んで南方に憧れ、台湾総督府立台北高等学校を経て東京帝大文学部に進学。在学中「熱帯柳の種子」で文壇デビューし、太宰治(1909~1948)、小山祐士(1906~1982)らと作家、井伏鱒二に師事した。 大学卒後は都新聞(現東京新聞)に入社。1937(昭和12)年発表の「土竜どんもぽっくり」や1938年発表の「南方郵信」が芥川賞候補となり、台湾に取材した「蕃界の女」「霧の蕃社」などの執筆で「南方文学」の旗手として注目された。 第二次大戦末期に東京から宮崎に疎開帰郷し、戦後は日向日日新聞(現宮崎日日新聞社)編集総務。西部図書株式会社設立に関与。1947年から1957年まで宮崎県立図書館長を務め、その後、父親の常三郎が社長を務める宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)の取締役に。1961年には父親の跡を継いで同銀行社長を務めたが、体調を崩して翌年辞任。1963年、父親に先立って死去した。没後の1971年、皆美社から「中村地平全集」が刊行されたが、戦後の日台関係の変化などからその作品群は次第に歴史に埋もれていった。 約80分の本作では、故郷宮崎を含め、南国のおおらかさを愛した中村の「南方文学」作品が、戦時中の陸軍報道班員としてのマレー、シンガポールなどでの体験を経て次第に苦悩がにじんでいった様子や、図書館の充実などを通じて戦後の復興、郷土振興に尽力した姿などを、残された資料や関係者の証言、現在の宮崎や台湾の風景をまじえた映像美によって浮き彫りにしている。 6月15日に日本大学文理学部(東京都世田谷区)で開催された上映会では、台湾文学研究者で一般財団法人台湾協会評議員の河原功氏が中村地平の功績や活躍した時代背景、当時の台湾の風俗などをテーマに講演。上映終了後は大きな拍手のなかで小松孝英監督も登壇し、河原氏とともに観客の質疑に応じた。 宮崎県延岡市出身の美術家である小松監督は、戦前の価値観のなかで宮崎県が日本神話の故郷とされながらも、戦後次第にその色を失っていった様子と台湾の戦前、戦後の変化に共通点を見出し、2021年には同じ宮崎出身で日本統治時代の台湾で初めて西洋美術を広め「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)などの作品を残した洋画家、塩月桃甫(しおつき とうほ、1886~1954)の足跡を描いたドキュメンタリー映画「塩月桃甫」を発表。 その際、同時代に活躍した同郷の中村地平の存在にも興味を持ったことが制作動機となった。当時、統治した側の立場にありながら現地住民や風俗への優しいまなざしなどから「塩月、中村は多様性を体現した人だった」と総括。 また映画の中では戦前の彫刻家、日名子実三(1892~1945)が紀元二千六百年奉祝事業としてデザインし、現在の宮崎市の平和台公園に1940年に建立された塔「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」(現平和の塔)の映像を象徴的に組み込んだエピソードなども披露し、「忘れ去られた人、物」を発掘、記録し、現在を考察する意義を強調した。 会場には東京・調布市在住の中村地平の二女も駆け付け、自身が16歳のときに他界した父親の、晩年の穏やかな家庭人としてのエピソードなども披露した。 「霧の蕃社」などを含む中村地平の代表作8編は、「中村地平 短編小説集」(黒潮文庫)として近く出版されるが、上映会に参加した男性は、「台湾での長い勤務経験を持つが、中村地平の存在はこの映画で初めて知った。小説作品もぜひ読んでみたい」と話していた。 上映会は各地で順次実施されており、6月29日は大阪府箕面市の大阪外国語大学記念ホール(大阪大学箕面キャンパス内外国学研究講義棟 1階)で開催される。午後2時開場、2時半~上映。入場無料。公式サイトより事前の申し込みが必要。
The News Lens Japan