崩御した<一条天皇>その後。なぜ本人は土葬を望んでいた?なのになぜ道長は火葬にした?『光る君へ』で描かれなかった「死してなお愛によりて結ばれ」たかったその想い
◆一条天皇が土葬を望んだ理由 そもそも火葬は、仏教の儀式ではありますが、死体を骨にすることで、死のケガレを早く無くしてしまう…という意識で導入されたという側面があります。最初に火葬された天皇は持統天皇で、それまでは天皇の葬儀は時に何年もかかるという、大変時間を要するものだったのです。 一方、平安時代の和歌を見ると、身分の高い人にとって火葬は遠くで拝むもので、その煙は人の魂が天界に上っていくしるし、たとえばかぐや姫の昇天と同様のことと考えられていたようです。 ならば土葬は、魂がずっとこの世に残り続ける、天の神の世界ではなく地の神の世界に留まりたい、という意志の表れのように思います。 では一条天皇にはこの世に留まり続けたい理由があったのか? 実はあるのです。そしてそれは、定子皇后に関係しています。 赤染衛門が書いた『栄花物語』の「とりべ野」は、定子皇后の死去と葬送の様子を詳しく哀切に書いています。 それによると、鳥辺野(京の東側の葬地)に「霊屋(たまや)」というものを造り、その中に定子の遺体が安置されたとあります。おそらくそのままで暫く置かれた後に陵を築き、そのうえで、土葬されています。 一条はこの形、つまり最愛の后と同じ扱いを望んでいたのではないかと考えられるのです。
◆一条天皇の心を考えると… ならば道長がその希望を握りつぶしたのも理解できます。そして実資とともに、道長が「思い出した」場にいたのが斉信と隆家だというのも象徴的です。 斉信は、一条天皇の後継者で新東宮となる敦成親王の一の側近、隆家は定子と藤原伊周の弟で、二人が亡きあと、いわば中関白家(三人の父、藤原道隆の子孫の一族)の当主です。 つまり、次の帝にも、定子の遺族にも、 「忘れていたっていうことにしても…いいよな」 という「同意を強要」したように思えるわけですね。そしてさすがの実資も、もう焼いてしまったのだから何も言えなかったのでしょう。 一条天皇が土葬を希望したのはおそらく急病になってからだと思います。ならばこれは遺言と言ってもいいようなもの、いくら道長が度を超えたうっかりさんだったとしても忘れるわけがありません。 道長はその意味に気づき、定子のもとに一条を送るまいと決めたのではないでしょうか?そしてお堅い実資が知らなかったのを幸い、すべてが終わってから、じつは・・・と切り出したのではないでしょうか? 一条天皇の皇后定子を思う心を考えると、とても切なく思えてくるのです。
榎村寛之
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