私たちはなぜ「テレビ報道」に翻弄されるのか ニュースと「ワイドショー」の境目がなくなった
兵庫県知事選挙後、「だまされた」と言われてしまったテレビは、少しは反省した様子があった。ところがPR会社のSNS請負疑惑が起こると今度は連日、あたかも公職選挙法違反が決まったかのように伝えはじめた。実際には、告発を受けて警察が捜査したうえで司法が判断することを、著名弁護士たちのコメントを錦の御旗に疑惑を盛り上げた。 その後、実際に告発する動きがあり今後どうなるかは捜査に委ねられる。この件も「疑い」をはやし立てたのは斎藤知事のパワハラ疑惑と同じだ。そのことを、「社会的処刑」と評した弁護士もいたように、司法が判断する前に勝手に処刑してしまっている。
SNSは偽・誤情報だらけだとテレビ側は批判するが、まだ疑惑の段階のことを朝から晩まで怪しい怪しいとはやし立てるさまは、偽・誤情報をまき散らすのとたいして変わりないと思う。そもそもPR会社のネタもネットが発信源だ。SNSを批判しておいて、SNSから得たネタで朝から晩まで盛り上がるのはずうずうしすぎだ。 たちが悪いのが、各番組は独自の判断で伝えているので個別に悪意はないことだ。PR会社を「処刑」しようと示し合わせているわけではないのに、結果として「社会的処刑」も同然のことが起こってしまう。
各番組に携わる個々人の自覚を促すだけではテレビ報道の怪物化は止まらないだろう。もう何十年も言われてきたことだ。 ■ワイドショーは存在価値を高められるのか そもそもワイドショーは芸能人のゴシップを扱う番組だった。テレビ局の部署としても報道ではなく情報の分野だ。芸能ネタを扱っていた番組がいつの間にか報道と同じ話題を扱うようになった。だがスタッフは報道の専門性を身に付けていないことが多い。人材不足でついこないだ制作会社に入ったばかりの若者が記者まがいのことをやらされていたりする。それで報道と同じ題材を扱って、きしみが起こらないはずはないだろう。「社会の出来事」を扱うなら3カ月間徹底的に教育を受けるような仕組みが必要だと思う。