私たちはなぜ「テレビ報道」に翻弄されるのか ニュースと「ワイドショー」の境目がなくなった
兵庫県知事についての報道でもまさに、斎藤知事は悪人と思えばそう見えるし、そうではないと思うとそうではないように見える。兵庫県民の多くが「ニュースや報道で見る事件と違う」と選挙期間中に考えを変えたから斎藤氏が再選された。そんな人々は「テレビ報道にだまされた」と感じている。 BPO(放送倫理・番組向上機構)には毎月視聴者の意見が数多く寄せられる。先日公開された11月の意見は兵庫県知事選挙についてが多かったという。BPOのサイト上で公開されているものをいくつか紹介しておく。
「17日に行われる兵庫県知事選についての各社の番組。前知事ひとりを集中的に批判していて公平性を欠いていると感じる。個人攻撃、ネガティブキャンペーンのように見える」 「兵庫県知事選に向けての新聞・テレビ各社の報道が一方的ではないかと感じている。記者クラブ制度による既得権益を守りたいがためではないかと勘ぐってしまう」 ■司法が判断する前に「社会的処刑」していないか すっかり信頼を失ったテレビはいま、変わらねばならない。変わるべき重要なポイントが、報道番組のワイドショー化、ワイドショーの報道番組化だと思う。ニュースなのかワイドショーなのかの境目がなくなり、テレビ全体が誰も制御できない怪物のようになってしまうことだ。「和歌山ドンファン事件」がまさにそうだった。
兵庫県知事の問題で言うと、当初は内部告発の処理が適切だったかが問われていたはずだ。ところがそこから派生した「パワハラ」「おねだり」といったパワーワードが独り歩きし膨張していった。ワイドショーでキャスターが整理されたボードの文言を丁寧に読み上げながらどんなパワハラがあったとか、こんなおねだりもしたとの「疑惑がある」と説明する。それに対しコメンテーターが、それはいかがなものかと批判する。その結果、「疑い」だったはずのことが事実であるかのように日本中に伝わっていった。