転生したら「東京モノレール」だった件
自慢2「羽田空港と歩んできた歴史」
もちろん吾輩は、羽田空港とともに歩み、 「羽田空港へのアクセスといえば東京モノレール」 という時代を築いてきた。しつこいようであるが吾輩の誕生日は1964年9月17日、東海道新幹線開業が1964年10月1日、東京オリンピックは1964年10月10日だ。つまり、東京オリンピック開催にあわせて、吾輩は突貫工事で造られた。 当時は成田空港がなく、東京のいや日本の“空の玄関”といえば羽田空港であり、各国の要人が吾輩を利用し、国際的には東海道新幹線より脚光を浴びたといってもいい。 開業当時は、羽田駅、今の天空橋駅までであったが、羽田空港の拡張とともに羽田空港第2ターミナルまで足を伸ばすこととなる。また、開業時は浜松町と羽田をノンストップで結んでいたが中間駅も設けられた。 1965(昭和40)年の大井競馬場前駅を皮切りに、 ・羽田整備場駅(現在の整備場駅) ・新平和島駅(現在の流通センター駅) ・昭和島駅 ・天王洲アイル駅 が開業し、今では沿線エリアの足としての役割も担っている。1日あたりの乗降人数(2023年)では、天王洲アイル~昭和島間が約5.4万人、整備場~羽田空港第2ターミナル間が約7.1万人と、 「中間駅の利用者が多い」 のも自慢といっていいかもしれない。
自慢3「ゴムタイヤによる静粛性と車両進化」
初めて吾輩に乗った人がまず驚くのは、やはり 「静粛性」 だろう。鉄道族とは違い、ゴムタイヤで走行しているのだ。ゴムタイヤで走行する 「新交通システム族」 が増えてきた今ではあまり珍しくもないが、吾輩が生まれた当時としては画期的だった。 祖先を振り返ると、 ・100形グループ(200形・300形・350形) ・500形 ・600形グループ(700形・800形) ・1000形 ・2000形 と数字が増えてきて、ついに6代目の吾輩で10000形という大台を突破した。 偉大な始祖の100形は日本初の公共交通のモノレールとして誕生し、1982(昭和57)年登場の700形で冷房導入、1997(平成9)年登場の2000形でVVVF化と時代とともに車両も進化してきた。 ちなみに山手線は、1964年は初代新性能電車の101系がバリバリに活躍していて、それから103系、205系、E231系、E235系とバトンタッチしている。吾輩一族寿命が短いのは、 ・増大する需要への対応 ・海岸部を走行するため機器の劣化が早いこと に起因している。