妻のこと Vol.13 – 年越しビバーク妻 –
2023年1月1日。朝5時。 明けましておめでとうございます。 と言ったのは、憔悴しきった妻だった。 連載「妻のこと」。 話は前日に遡る。 大晦日の夜9時、妻と私はニュージーランドの山奥を猛烈な速度で歩いていた。 妻は目に大粒の涙を溜め、私は小粒の涙を溜めていた。 軽めに遭難していたのだ。 事前に買った地図で示されていたルートは途中で崩落し、見つけた迂回ルートは倒れた巨木で閉ざされ、私たちは容赦無く沈んでいく太陽と競い合う様に、あてもなく歩き回っていた。 そして9時、日が暮れる。 「今日はここでビバーク(緊急夜営)しよう」 と私が言うと、 「そうだね」 と顔色を失った妻が答えた。 鬱蒼としたジャングルを12時間以上歩き続けた私たちは泥と傷に塗れ気力を失いかけていたが、どうにかテントを設営し、その日の屋根を手に入れた。 問題は水だった。 野営を決めた私たちはその時尾根近くにまで上がってしまっていた。 水を得るには数百メートル下った沢まで行かなければならない。 陽の落ちた道なき山中を下っていくのは現実的でなかった。 私たちは残りの水の量を把握するため、手元のいくつかの水筒に分散されていた水を、人生でこれ以上ないというくらい慎重に、一つのペットボトルにまとめた。絶対にこぼすわけにはいかなかった。 700ml。 これで今夜の水分を賄い、明朝沢に辿り着くまで耐えなければならない。 すると妻はそのボトルを手に取り、 「喉乾いちゃう」 と言ってゴクゴクゴクとそれを飲んだ。 私は少しだけ「あれ?」と思ったが、一旦その「あれ?」は置いておいた。 そんなことより今日は大晦日。もうすぐ年越しである。 私はこの時のために、馬鹿みたいに重い生蕎麦をバックパックに突っ込んで来たのだ。 しかし、水は残りわずかだ。 私は鍋に150mlの水を入れ、沸騰させる。 そこに蕎麦を投じると、湯はあっという間に吸い尽くされ、ちょっと水分を含んだ煮麺みたいな変な物体ができた。「喉が乾くから」とのことで、つゆなどを加えることは禁止された。 それをずるりと啜ると、まぁそれはそれでそんなに悪くなかった。 妻も美味しいおいしいと一生懸命に食べている。 「無理矢理だけど年越し蕎麦食べられてよかったね」 というと、妻は顔を引き攣らせて「そうだね」と言ってゴクゴクゴクと水を飲んだ。 蕎麦もどきは瞬く間に私たちの胃袋に消えてしまった。私はそれから蕎麦を茹でもせずにボリボリと食べた。居酒屋で時折出てくる揚げたパスタみたいな感じで、それはそれで悪くなかった。 「結構いけるよこれ」 とどう考えても痩せ我慢みたいなことを言うと、妻は「まじ?」と三本ほどの麺をポリポリして「ほんとだおいしい」と言うや否や目をかっぴらいてゴクゴクゴクと水を飲んだ。 ボトルの残りはもうわずかである。 私は痺れを切らしてこう言った。 「もしかして、水がないと思えば思うほど喉乾いちゃう感じ?」 すると妻は、なんの話?とばかり目を丸くするのだった。 そうして私たちは、食後のコーヒーを飲むことはおろか、汗みずく泥まみれの体を拭くことも、歯を磨くこともできずに寝袋に包まった。 その時に見た空には、見たことないくらいおっきな北斗七星がギャンギャンに煌めいていた。 そうして新年の朝が来た。 妻は浮腫んでパンパンの顔で 「明けましておめでとうございます」 と笑顔を向けてくれた。 私は水分不足で浮腫むことも許されなかった笑顔で 「今年もよろしくお願いします」 と答えた。 みなさん、今年もよろしくお願いいたします。
プロフィール
上出遼平|1989年、東京都生まれ。テレビディレクター・プロデューサー。早稲田大学を卒業。2017年にスタートした『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズの企画、演出、撮影、編集など、番組制作の全過程を担う。 photo & text: Ryohei Kamide
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