佐藤優が考察する「村上春樹」作品 『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』で何を描いたのか?(レビュー)
神学と海外事情に精通する佐藤優さんによる『神学でこんなにわかる「村上春樹」』(新潮社)が刊行された。 悪の問題に正面から取り組んだ『騎士団長殺し』を「不可能の可能性に挑む」「神なき時代の愛のリアリティ」のキーワードで詳細に読みほぐし、最新作『街とその不確かな壁』に至る展開まで鋭く考察した本作を著者本人が語る。
佐藤優「村上春樹作品で世界を掴む」
私は、外交官の学歴としては珍しいのですが同志社大学神学部と同大学院神学研究科の出身です。専門は組織神学(キリスト教の理論)で、チェコの神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカ(1889~1969年)の神学に魅せられました。この神学者は、無神論を国是とする社会主義国家にとどまり、困難に立ち向かいながらもイエス・キリストに従って他者のために生きるという姿勢を貫きました。同時にフロマートカはキリスト教徒に、教会や信者間の関係に閉じ籠もらず、キリスト教に敵対的もしくは無関心な人びとが多数であるこの世界に飛び込んでいけと言いました。そして、イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教徒は、無神論者、異教徒よりも、この世界をよりリアルに認識できると強調しました。
村上春樹氏の小説も同様に、私たちが生きているこの世界をよりリアルに認識するのにとても役に立つと私は考えています。現代人は、天にいる神のような超越的存在を信じることができません。また世界の外側(外部)が存在するという感覚を持っている人も少数派です。『騎士団長殺し』では、イデア(ときどき騎士団長の姿をとる)、メタファー(顔ながという形で現れる)などという名称で、外部が私たちの前に姿を現します。 外部と共に村上作品で重要なのは、悪の実在です。カトリック神学、プロテスタント神学においては、多くの神学者がアウグスティヌスが唱えた「悪は善の欠如に過ぎない」というモデルをとります。いわば悪とは穴あきチーズの空洞のようなもので、そこにチーズを充填していけば悪は無くなるという考え方です。しかし、東方正教神学においては、悪はそれ自体で自立した存在であり、人間の努力によって克服できるようなものではないと考えます。また正教神学は、「~である」という表現で積極的に立場を表明する肯定神学を好みません。「~でない」を繰り返して、その残余の部分で定義する否定神学で、神、愛、悪などの表現が難しい事柄を表現します。このような正教神学(思想)の伝統を踏まえて長編小説を書いたのが、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーです。村上氏はドストエフスキーの小説を深く読み込んでいると私は見ています。『騎士団長殺し』における主人公と騎士団長、秋川まりえ、免色渉などの会話の情景は、カラマーゾフ家の食卓に繋がっているように私には思えてなりません。