「『キャンティ』はみんなの連絡場所だった」「暁星は変なヤツがたくさんいるんです」村井邦彦×岡田大貮《特別対談・第1回》
YMOや松任谷由実など錚々たるミュージシャンを世に送り出し、自らも作曲家として『翼をください』をはじめ、数多くのヒット曲を生んできた村井邦彦。 【写真】三千人以上のミュージシャンと仕事をした音楽家が断言…最も優れた男性歌手 一方、ディスコ『キャステル』をはじめ、『ダイニズテーブル』『ブラッスリーD』などの名店で東京の夜の文化をつくりあげた岡田大貮。 音楽とレストラン――。活躍するジャンルは異なるが、二人はこれまで幾度となく交差してきた。その間には、今年9月に亡くなった川添象郎の姿がいつもあったという。 川添さんとの記憶、『キャンティ』での思い出、そして話は伊丹十三との逸話、イッセイ・ミヤケへの感謝と広がっていく特別対談。ちなみにご両名、暁星高校の先輩後輩という間柄である。
鮮烈な出会いから始まった縁
岡田:僕がいまだに忘れられないのは、村井さんとの出会い。高校の時の文化祭でした。 村井:そんな昔のこと覚えているんだ。 岡田:文化祭の時に必ず村井さんがピアノを弾いて、3、4人でジャズバンドを結成して演奏していたんですよ。とにかくみんなカッコいいなと思って。僕の先輩にこんなにカッコいい人がいるんだなってことを認識したんです。学年でいうと村井さんは僕の2つ上なんですよね。 村井:そうですね。僕が2つ上。 岡田:その後も村井さんとはいろいろな縁があって。ルネ・シマールっていうカナダ出身の少年がいましたね。 村井:そう。彼は東京音楽祭でグランプリを獲るんだよね。 岡田:1974年に村井さんが作曲した『ミドリ色の屋根』という曲で、第3回東京音楽祭世界大会でグランプリとフランク・シナトラ賞を獲ったんです。僕はその時にね、TCJ(Television Corporation of Japan)の日比谷輝夫さんと僕と僕の兄貴と仕事でパリにいたんですよ。そしたらね、ちょうどグランプリを獲ったっていう時に村井さんから日比谷さんに電話が入ったんです。「東京音楽祭でグランプリだなんて、大変なことじゃないですか!」って言ったことをいまだに覚えています。 村井:そうでしたか。ルネ・シマールにかかわったのも、象ちゃん(川添象郎)の直感からすべてがはじまったんです。 岡田:さすがは川添さんの慧眼ですね。いいものはパッとわかるし、すぐに動く。それでその後、僕がパリから東京に戻ったら、ルネ・シマールのファンクラブができていたんですよ。それを手伝うことになりまして。 村井:ファンクラブに大ちゃんが関係してたの? 岡田:そうなんです。ルネ・シマールはアルファレコードじゃなくてアルファミュージックですか? 村井:そうだね。アルファミュージック。 岡田:道上雄峰君って覚えてるでしょ? 村井:道上はよく覚えてるよ。いまワイン屋さんをやってるよね。 岡田:道上君も暁星の後輩。彼と僕はフランス語ができたので、彼がルネ・シマールの通訳をやっていて、僕はファンクラブの手伝いをしていたんです。 村井:へー、それは知らなかった。 岡田:いま思い出すとそんな縁がありました。僕にとって村井さんは憧れの先輩だったから、しょっちゅう村井さんのオフィスにいつも勝手に押しかけるんですよ。何の理由も用事もないんだけど、「こんにちは」って行くんです。村井さんは嫌な顔一つしないで迎えてくれて、それで僕はお茶を1杯ごちそうになって帰るんです。その時にもう一つ記憶にあるのは、村井さんが、「これがね、大ちゃんいいんだよ」と言って。ペリー・ボトキンの『ナディア』というレコードを聴かせてくれたんです。 村井:え~!覚えてない! 岡田:ナディアっていうのは、ルーマニアの体操選手のナディア・コマネチのこと。ペリー・ボトキンが彼女の名前をタイトルにして作曲した曲ををかけてくださったの。その時に村井さんが、「やっぱりね、大ちゃん、これが官能的な曲って言うんだよ」って仰ったことをいまだに覚えています。そんな調子でお忙しいことは知っていたけど毎回押しかけていました(笑)