『メイ・ディセンバー ゆれる真実』アイム・ノット・ゼア、消えていくイメージと真実
汚れた手をした無実な人々
グレイシーは未成年の捕食者として世間から批難されている。グレイシーに近づくエリザベスは、グレイシーとジョーの新たな捕食者になろうとしている。高校の特別授業でマスタークラスに招かれたエリザベスは、役を決める基準を問われ、道徳的に灰色なキャラクターだからこそ惹かれると語る(グレイシーの娘の前で!)。エリザベスによる配慮に欠ける無邪気さは、自身の欲望に忠実なグレイシーのイメージと重なっている。汚れた手をした無実な人々。それは二人の人生を映画化しようとするエンターテイメント業界の捕食行為とも深く関わっている。 『メイ・ディセンバー』は、この捕食行為に対して何らかのジャッジを下す映画ではない。しかしこの作品は、ワイドショー的な世間の好奇心を含む捕食行為の倫理感を激しく揺さぶってくる。エリザベスは「真実」を求めているという。その言葉に嘘はないだろう。二人の人生が映画化されることによって、世間の誤解が少しでも解けることを心から願っている。同時にエリザベスによるグレイシーへの捕食行為は、他人の人生に土足で入り込んでいくことへの警鐘にもなっている。 この脚本を持ち込んだというナタリー・ポートマンは、キャリアの新たな領域に入ったことを告げる素晴らしい演技を披露している。そして静かな微笑みの中に脆さや狂気を含むグレイシーを演じる圧倒的なジュリアン・ムーア。エリザベスの犯した最大の失態とは、自分の欲望に忠実に生きているように見えるグレイシーの裏に隠された脆さに気づけなかったことだろう。グレイシーの微笑みは、彼女がほとんど無意識に獲得した処世術、演技なのだ。そして演技こそが、この作品のテーマでもある。 ここにはキャスト、スタッフ含め、23日間の短いスケジュールで撮られたとは思えない綿密な“設計”がある。トッド・ヘインズはこれまでの作品と同じように、様々な参考資料を盛り込んだ「イメージブック」を用意している。