国際機関は運転席に座り、使うこと 話の肖像画 元駐米日本大使・藤崎一郎<20>
《外務審議官からジュネーブで国際機関日本代表部大使を務めた。何に注力したのか》 ジュネーブに着任早々、世界貿易機関(WTO)関係の主要国会議入りを自らの課題とした。WTOでは多数決の投票はなく、百数十ある加盟国の全会一致で物事を決定する。おのずと参加国を絞った非公式会議で大きな方向付けをする。かつて日本は常に主要国のメンバーだったが、違った。米、欧州連合(EU)、ブラジル、インドの4カ国閣僚会議ができていわば運転席に座り、ビッグフォーと言われていた。これに入らなければいけない。日本のいない場で日本の主張が反映されるはずがないと思った。 中川昭一経済産業相がまったく同じ考えで、自ら主要国閣僚に直接働きかけた。紆余(うよ)曲折はあったが、日本と豪州を加えた6カ国閣僚会議に拡大され、農林水産相に転じていた中川氏と二階俊博経産相が毎月のように出席した。しかし進捗(しんちょく)がなく、再び4カ国閣僚会議が復活。しばらくして同会議が決裂したときには、日本不在の場で合意ができなかったことに心底ホッとした。 この後、交渉はジュネーブの大使たちに任された。そこで「言い出しっぺ」になれば外されないと思い、主要国大使に個別に働きかけて毎週持ち回りの朝食会をつくった。私の離任後もこの朝食会は続いたようだ。 WTOでは、ダンピングについての米国の一方的な主張にWTO事務局も担当委員会の議長も屈しそうになったことがある。不当だと思い、アフリカその他多くの国々に個別に働きかけ、多数派で包囲網をつくって阻止した。パスカル・ラミー事務局長や米通商代表部(USTR)は、日本の動きは予想外で不満を持ったと聞いた。 《国連専門機関にはどんな心がまえで臨んだのか》 国際機関は仰ぐものではなく使うものだ。議題決めから関与し、どのように毎回の会合を日本のために利用するか、常に意識するよう代表部員には話していた。各専門機関の事業費と事務局経費の比率、人員数その他の比較表を作らせ、効率性を比較した。加盟国代表部がこういうことをしたのは初めてで、各事務局からはうるさいと思われただろう。同時に各機関の事務局長とは1対1の個人的関係を築いた。ランチに招いて酒や文学やそれぞれの国の話など、仕事以外のことを午後、話し込んだり、お互いの夫婦だけで夕食をとったりした。 また、国連難民高等弁務官(UNHCR)執行委員会議長として、グテレス高等弁務官(現国連事務総長)の改革を支持した。会議の前には各議題の事務局から説明を受け、何が問題か、加盟国に何を期待するかに絞って会議で報告するよう指示し、各議題の終了後に自ら議長サマリーを述べるなど、それまで議事進行するだけだった議長役を実質的なものにした。