「家では包丁使いたくない」カレー店主 柑橘と大葉でさわやかな香りの〝名前のない鍋〟
お鍋、食べましょうかと誘ってくださる。 「お肉はあまりしゃぶしゃぶしないほうがいいそうですよ。うま味が汁に逃げるから。入れてしばらくおいて、返してサッと煮るぐらいで」 従ってみれば、なるほど確かに肉の味が濃い。 そして大葉がいい仕事をする! 他の具材と合わせて食べれば実にさわやかな香りを加えてくれる。 なんとも新鮮なしゃぶしゃぶになって驚いた。ゆずが香る出汁も口がさっぱりして箸が進む。その汁をたっぷり吸った油揚げがまたおいしい。 「私、飲んじゃっていいですか(笑)? やることやって早く飲みたい、何よりの楽しみなんです」 お気に入りは鹿児島の芋焼酎『紫の赤兎馬』、いろいろ試してたどりついた1本だそう。 ひとすすりして「ぷはっ」と一息ついた表情がなんともよかった。取材したのは日曜日、お店の定休日である。貴重なお休みにすみません。 お店は今年(2024年)で20周年を迎える。都心部で飲食店を20年続けるというのは並大抵のことではない。信頼できるスタッフに恵まれ、贔屓にしてくれる客もいるが、やはり大変なこともある。 「近年の食材の値上がりがすごすぎますね……。コロナ禍以降は売り上げも落ちました、お酒を飲む人は確実に減りましたし。そして1杯のカレーを出すのにやること多すぎるなと思いますよ。毎日死ぬほど野菜刻んでます、もっとラクしたいです(笑)」 でも誰かに任せたいというわけじゃない、と吉野さんはすぐに続けた。 後日、お店を訪ねてカレーをいただいた。サラッとした汁をひとすすりして、澄んでいるなあ……と感じ入る。 トマトとチキンのうま味、野菜の甘みやスパイスの香り、すべてがきれいにひとつとなってスーッと体に入ってくる。とがった感じや重たさが一切ないその柔和なおいしさ。吉野さんが修行先で感じた「食べ終わってまたすぐ食べたい」という感覚が理解できた。 これが「誰かには任せられない」、吉野さんだけの味なのだな。 <取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)など。2023年10月25日に『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)を出版。 Twitter:https://twitter.com/hakuo416 Instagram:https://www.instagram.com/hakuo416/>