「家では包丁使いたくない」カレー店主 柑橘と大葉でさわやかな香りの〝名前のない鍋〟
ふと見れば、居間の片隅に映画のポストカードを集めたパネルが飾られている。 『髪結いの亭主』、『ブルーベルベット』に『デリカテッセン』など私も好きな映画が多くてうれしくなった。吉野さんとは同世代、観てきた映画も似通っている。 「特に映画が好きになったのは、ラジオ局で働いていたときなんです」 そう、料理界へは一本道で進んだのではなかった。これまでの紆余曲折を吉野さんは話し始めてくれた。 「自由人でしたね」 小さい頃はどんな子どもでしたかと訊いて、すぐに返ってきた言葉である。 「小学校の通信簿にはずっと『協調性がない』って書かれてました。ひとりで何かするのが好きで。神奈川の相模大野で育ったんですけど、周囲は子どもだらけなのに、つるまない子で」 吉野さんは1974年の生まれ、第2次ベビーブーム世代である。私はその翌年に生まれた。当時は「全体に合わせることがいいこと」と思われ過ぎていた時代だったようにも感じる。吉野さんは「協調性がない」と断じられ続けて、つらくなかっただろうか。親御さんからはうるさくいわれなかっただろうか。 「それが全然で。母のほうが自由な人でした。父は昭和のモーレツ社員で、朝は早くて夜は遅い。放任的でしたけど、不自由なく育ちましたね。でも中学校で現実を突きつけられて」 テニス部に入ったら先輩がとても厳しく、一緒に入部した50人は3年後に10人にまで減っていた。 「大変でした。でも私は、何事もあまり深刻に考えないんです」 淡々と受け止めて対処する力を中学の時期に養われたのかもしれない。しかしそんな娘を見て母親は「あなた、すごくつまらない子になったねえ」といったというから、すごい。お母さんの人生も取材してみたくなった。 高校は進学校へ進み、文教大学へ入学。湘南キャンパスで学んだ。 「湘南といいつつ山奥にあるんです(笑)。大学時代はクラスメイトがサーフィンを教えてくれたり、ピッチ(PHS)の店頭販売のバイトをしたり。『GOLD』とかのクラブにも行ってましたねえ」 卒業後は映画配給会社の営業部に就職するも、会社が1年で解散。25歳のときにラジオ局の事業部に再就職する。 「映画試写会のイベントを担当してました。試写会を企画して、作品とスポンサーをマッチングさせるんです」 映画に合う商品とメーカーを考えて打診し、スポンサーになってもらう。もちろんラジオ番組の中でも紹介する。やりがいはあったが次第に行き詰まりを感じた。 「もともと人が集まるようなことが好きじゃないんですよ、イベント担当なのに。そして何もかも中間の立場ですからね。続けているうち、人に気をつかわず出来る仕事がしたくなって。手に職をつけたいな、と」 30歳前後で自分の仕事や立場を見直す人は少なくないだろう。吉野さんもそうだった。収入は悪くなかったが出直す道を選ぶ。向かった方向は「カレー店を開く」というものだった。 「会社の先輩が長野県の松本出身で、よく遊びに行ってたんです。松本でおいしいインドカレーに出合ったのがきっかけ。今はもうない『シュプラ』というお店です。こういう味は東京にはない、東京でも食べられるようにしたいと思って」 むくむくと意欲が湧いた。 スパイス感がちゃんとあるけれどくどくなく、体にやさしい味わいのカレー。食べ終えた後も「またすぐ食べたいと思うような味」に魅了された。 吉野さん、料理は得意ではなかったが「カレー店なら基本の数種が作れれば経営できるかも」と読み、そこに賭ける。 運良く『シュプラ』で修行することができ、1年を過ごし基礎を学ぶ。自身の店『ライオンシェア』をオープンすることが出来たのは2004年のことだった。 ちなみに店名の由来を聞けば「お店はライオンズマンションの1階なんです。そこを借りるからライオンシェア」とあっさり。思わず笑ってしまった。