「夫を殺した瞬間、ホッとした」借金あり、女癖も悪い暴力夫(28)を母親と協力してバラバラに…世間からも同情集めた「26歳・女性教師」のその後(1953年の事件)
使われていた新聞は毎日12枚、朝日6枚、読売2枚、東京1枚の計21枚。その中に朝日新聞大阪本社発行分が1枚混じっていた。発行日は1951年3月25日。富美子が伊藤と同棲するため上京する直前のものである。さらに、5月10日の夜中、パトロール中の警察官が大きな荷物を積み自転車を漕ぐ富美子の姿を目撃し、数分後に見かけた際には荷物がなくなっていたことを確認していた。こうした状況証拠から捜査本部は富美子を犯人と断定。 16日夕方に赤羽署で取り調べたところ、最初こそ「私は教育者です。殺人など働くはずがありません」と毅然とした態度をとっていたものの、事情を把握し彼女への同情を示しながら真実を話すよう諭す警察に対して、17日になり「お手数をかけて申し訳ありません。私がやりました」と自供、そして逮捕。母のシカも同日に娘と同じ殺人・死体遺棄損壊容疑で逮捕された。また、同日に行われた家宅捜索では2階4畳間の押入のカーテンやタライなどから血痕が見つかった。 取り調べが一段落したところで、富美子は次のように語ったそうだ。
「夫を殺した瞬間、ホッとした気持ちでした」
「世間の人は私のことを異常性格と言うかもしれませんが、私は伊藤に対して心から詫びるつもりはありません。あのまま生活を続けていれば、どちらかが殺していたでしょう。私は夫を殺した瞬間、ホッとした気持ちでした」 1952年7月11日、東京地裁で開かれた初公判で富美子とシカは起訴事実を全面的に認めた。ただ、被告弁護人は「シカは富美子の言うとおりにするほかに道はなく、刑事責任は免れるべきだ」とシカの無罪を主張する。 その後、自宅や新荒川大橋などの犯行現場の検証や、かつての居住地の大阪、実父の居住地の山形で出張公判が開かれるなどして、同年9月17日、検察は「反省が見られない」などとして富美子に無期懲役、シカに懲役3年の求刑。10月28日に下された判決は、富美子が懲役12年、シカが懲役1年6ヵ月だった。 2人は控訴せず刑が確定。共に栃木女子刑務所に収監されたが、シカは1953年に尿毒症で獄中死。富美子は1959年に「皇太子ご成婚」特赦で減刑され、7年の服役で出所した。その後、彼女がどんな人生を送ったのかは不明である。
鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載)