『光る君へ』の紫式部は当時<極めて遅い>26歳前後で藤原宣孝と結婚。婚期が遅れた原因は性格や結婚観などでなく、単に…
◆宣孝との結婚 そして長徳4年(998)の冬に、紫式部は宣孝と結婚した。 これが越前下向前からの予定の行動なのか、それとも田舎暮らしに飽きた末の行動なのかはわからないが、私にはどうも、為時の着任が一段落したら京に帰って宣孝と結婚するのが既定の行動だった気がしてならない。 紫式部は当時、26歳前後と考えられるが、これは当時としてはきわめて遅い初婚で、2度目の結婚という説もあるくらいである。 ここまで婚期が遅れたのは、なにも紫式部の内省的な性格や結婚観や性的嗜好によるものではない。 紫式部の適齢期に為時が無官であったためである。 当時は男性が婿として妻の実家に入る結婚形態であったから、政治的にはもちろん、経済的にも後見(こうけん)の期待できない為時の婿になろうなどという男は、現われるはずがないのであった。 紫式部としても、装束や食事や牛車の用意もできない我が家に婿を迎える気にはなれなかったであろう。
◆20歳前後の年齢差 宣孝とは20歳前後の年齢差があったが、これは当時としては、女性が嫡妻(ちゃくさい)でない場合は、あり得ない話ではなかった。 宣孝は紫式部と同居しておらず、いずれかの旧妻(嫡妻)の許で暮らしているので、紫式部は嫡妻の地位を手に入れたわけではなかった。 いったいに仮名文学を記した女性は、『蜻蛉日記』の藤原道綱母をはじめ、嫡妻でない人ばかりなのである。 いつともしれぬ夫の訪れを待つ女性の生活(を描いた文学作品)を、「当時は妻問婚だった」などと平安貴族一般の結婚形態と勘違いすることは、厳に慎しむべきであろう(夫と同居する嫡妻の描いた日常など、面白くもないであろう)。 ※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。
倉本一宏
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