【日下部保雄の悠悠閑閑】ビルマ航空戦の隼
お世話になっていた方が随分前に貸していた本をわざわざ返しに来てくださった。本とは「ビルマ航空戦」上下巻で著者は梅本弘さん。1巻は500ページ以上になる大作で、ビルマ(現ミャンマー)航空戦の実際を日本側資料と連合国側の資料、そして研究者との情報交換で構成し、客観的な立場から見た航空戦を描き出している貴重な著作物だ。戦記の生々しさはないのも逆に正確性を重視したことがうかがえる。 【この記事に関する別の画像を見る】 空中戦は多くの飛行機乗りが証言しているように撃墜の誤認が多く、それはどの国の航空部隊も変わらない。弾が当たり白煙を引いても飛行を続け、火が出た場合も消火して被害実数が合う敵味方も少ない。欧州戦線では業を煮やしてガンカメラを開発したところ、飛行機のシルエットが似ている友軍機を攻撃していたこともあるようだ。 日本でも陸軍が海軍の双発機を撃墜し、大戦末期にはずんぐりした機影がグラマンに似ている雷電が攻撃されたり、飛燕とP51を間違えて編隊を組もうとしたりするなど、戦局が混乱するほど誤認は増えている。 さて、緒戦で大活躍した海軍の零戦に比べると、大陸で使われることを想定していた陸軍機の主な活動の場は中国や東南アジアで、開戦当時の主力機だった97式戦闘機、やっと数がそろった隼の活動はあまり知られていない。 しかしビルマ戦線では緒戦から終戦まで陸軍航空隊が劣勢ながら優位を保っていた。特に陸軍航空の主力だった一式戦闘機の隼は整備性がよく、軽快な機動力を活かして、緒戦では英国のホーカーハリケーンやアメリカ義勇軍のP-40相手に、終盤では「恐ろしく速い」P-51やスピットファイヤを相手に健闘した。 末期には機材の劣勢は否めなくなっていたが隼の美点を活かして活動は衰えなかった。それに地続きの戦場では連合軍、日本軍とも操縦者が無事帰ってきたことも少なくないのもわずかだが救われる。 東南アジアでは雨期になると飛行機が飛べなくなり、その間に人員の休養や機材の更新などができた。ニューギニアでの陸軍機が休む間もなく優勢な米軍相手に壊滅したのに比べるとまだマシだったようだ。 開戦劈頭の97戦は1939年に起こったノモンハン事件での主力機でソ連軍を圧倒したが、それから2年が経過した時点では完全に旧式機。速度の速いハリケーンに悩まされたが一式が登場すると圧倒し始めたことがこの本からもよく分かる。 この戦域はほとんどが一式戦をI型からIII型まで運用する部隊にゆだねられていた。パイロットは速度の速い四式戦疾風を望んでも、実用性の高さと使い方次第でIII型で十分戦えると判断した部隊によって一式戦部隊は最後まで踏みとどまった。スペックに現われない強みがあるのは現代で通じるものがある。 この本が返るまで長い時間がかかるのは当然。小説のような高揚感はないので少しずつ読んでは戻ることになるからだ。自分よりずっと正確な知識を持っている氏も「隼を見直した。もう少し調べてみよう」と言ってくれ、さらに「ゴジラ-1.0」の重巡「高雄」や局地戦闘機「震電」、そして舞台背景のサワリを置き土産にして帰られた。うーん、気になる……。
Car Watch,日下部保雄