逢瀬から狂い始めた人生の歯車 仮名手本忠臣蔵の義士・早野勘平が招いた悲運 名作偏愛エマキ
運命はときに、何げない行動を取り返しのつかない過ちに変える。あの日、あの瞬間でさえなければ、という思いが胸をかき乱し、後悔の鎖がギリギリと己を締め上げる。赤穂浪士の討ち入り事件を題材にした傑作「仮名手本忠臣蔵」。全11段の壮大な物語の中で、その過ちを取り返そうと、もがくほどに悲運に絡め取られる姿がいじらしいのが早野勘平だ。 塩冶判官(えんやはんがん、塩谷とも)のお供で登城した日、家臣の勘平は腰元のおかるとこっそり逢瀬を楽しんでいた。時を同じくして、殿中で判官が高師直(こうの・もろのう)の嫌がらせに耐え兼ね斬りつける大事件が発生。恋にうつつを抜かし、即日切腹という主君の大事に間に合わなかった失態が、勘平の運命を狂わせる。 何とか主君の仇討ちに加わるのに必要な金を工面しようと、おかるの実家に身を寄せて夫婦となり、猟師をして機会をうかがうが、猪を狙った銃弾で人を殺してしまう。撃たれたのは斧定九郎(おの・さだくろう)。その直前におかるの父を殺し50両入りの財布を奪った悪党だ。死体の顔も見えない闇夜で、勘平がその財布を盗んだのが運の尽き。舅の死が明らかになるや自分が撃ち殺したと早合点し、腹に刃を突き立てる。 「色に耽ったばっかりに」と元凶となったあの日の逢瀬を悔やみ、頰をたたいて血でべったりと指の跡を付ける歌舞伎の演出がなまめかしい。ところが直後、舅の死因は銃弾ではなく刀傷と判明する。定九郎を殺し、図らずも舅の無念を晴らした功で義士に加わることを許された勘平は、虫の息で仇討ちの連判状に血判を押し絶命する。 逢瀬、猪、舅の死因判明。悲運を招いたのは、ほんの少しずつずれたタイミング。実は誰しも綱渡りのような日常を生きている。そんな人生のスリルに気付かされ、少し背筋が寒くなる。(田中佐和)