「花山法皇の娘」のあまりに“壮絶すぎる最期”。恋愛に奔放だった花山法皇は母子と関係を持った
中務が産んだのは清仁親王、平子が産んだのは昭登親王でした。2人の皇子は、冷泉上皇(花山法皇の父)の子として養育されることになります。 出家の身である法皇に子どもができたことに対して、世間体を気にして、そのような対処をしたのでしょうか。 その後花山法皇と中務の間には、またしても子どもができました。その子どもたちは、どちらも女の子でした。 下の女の子(妹)は、産まれてすぐに兵部という女房のもとに里子に出されてしまいました。この女の子は、皇女としての人生ではなく、女房の娘としての人生を歩まされることになったのです。そして、その娘もまた養母と同じように、女房となり、藤原彰子に仕えることになったのでした。
しかし、この哀れな「皇女」には、悲惨な最期が待ち受けていました。1024年12月6日の夜。娘は盗賊により殺され、その遺体は路上に放置されたのです。しかも、遺体は路上を彷徨う野良犬により食いちぎられるという無惨な状態でした。 変わり果てた姿となった娘。娘の身元を割り出すことができたのは、着ていた衣服からでしょう。「皇女」は盗賊によって殺されたとする一方で、誰かが路上に誘い出して殺したのだとの噂も流れていました(『小右記』)。平安時代、盗賊は上流階級の人々の邸宅に押し入ることがよくあったのです。
紫式部の日記にも、1008年の大晦日に一条天皇の仮御所(一条院)に盗賊が乱入したことが記されています。このときは殺人事件に発展することはありませんでしたが、盗賊たちは女房2人の衣装を剥ぎ取るという行為に及んでいます。 また、平安時代末に成立した説話集『今昔物語集』にも、強盗・盗賊に関する以下の話(巻第29第8)が記載されています。 下野守・藤原為元の邸(三条大路の南、西洞院大路の西)に、これまた12月の末に、強盗が入ります。
邸の者が騒いだお陰もあり、強盗はほとんど何も取らず、ただ身分の高そうな女性だけを邸から連れ去ったのでした。 女性を馬に乗せ、三条大路を西に逃げる盗賊。大宮大路の辻に来たとき、盗賊はこの女性の衣装を剥ぎ取り、そのままどこかに逃走してしまいます。女性がいては逃げるに足手まといと思い、売れそうな衣装だけ奪っていったのでしょう。 全裸にされた女性は、あろうことか、大宮川に落ちてしまいます。氷が張る冬の川。寒風も吹きすさびます。何とか川から這い上がる女性。民家に行き、門を叩きますが、真夜中でもあり、怖がっているのか、誰もなかに入れてくれません。女性はとうとう、凍死してしまい、遺体は犬に喰われるという悲惨な状態になってしまったのでした。